一片の新聞記事『高橋和巳全集2』5頁

一片の新聞記事から、私の動揺がはじまったことは残念がら事実である。もし何事もあかるみに出ず、営々として構築した名誉や社会的地位が土崩することもなければ、現在もなお私は法曹会における主要メンバーの一員であり、また大学教授としての精神的労作いがいの負担は私の魂には加わらなかったであろう。傷ついた私の名誉は、しかし私が気に病むほどには人は気にしてはいまい。また、私自身、事態を悲しんでいるわけではない。愛のことどもについて、ほとんど考えてみもしなかった学究生活においても、考えてもなんの結論をえられぬことを知った今も、私は悲哀の感情とは無縁であった。私がかつて最高検察庁検事であり、法学博士であり、いま某大学法学部教授であるゆえに、新聞関係者のセンセイショナリズムとらえた私の事件も、けっしてそれほど特異なものではなかった。
高橋和巳「悲の器」『高橋和巳全集2』5頁

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