廃墟の思想『高橋和巳全集 5』448-449頁

そう、長い間、藤堂にとっては西村の日常性の尊重、いや、ほとんど痛ましい日常への埋没が、奇妙にも彼自身の希望のようなものだった。西村がそれに成功するかしないかが、彼の内部の一部分、しかも手や足ではなく心臓や肺臓のように重大な部分の死活にかかわるような気がしていた。藤堂には解っていた。なぜ西村があんなにも懸命に平凡でありたがり、一切の超越的なものを拒否しようとしたのか。それは、彼が英文学的な良識に影響されていたかれではなく、彼もやはり〈廃墟〉を見てしまった人間だったからだ。廃墟のあとの人間には三つの生き方しかない。廃墟を固執し、一切を廃墟に還元する破壊的な運動に身を投ずるか、さもなくば廃墟のイメージを内面化しつ自己自身を無限に荒廃させてのたれ死にするか――そして今ひとつ、廃墟の中にも営まれつづけた悲劇でも喜劇でもない日常茶飯、朝起きて顔を洗い、歯を磨き、朝の挨拶をし、自分のそれぞれの勤めを果たし、そして夜眠るという日常の形式を頑固に守りつづけること。どんな悲劇も日常化してしまうこと。戦争を日常化し、貧窮を日常化し、いかなるものをも日常化するその日常性の地点から、他の者がおかされつつある虚妄の掛け声、虚妄の希望と虚妄の絶望を批判し拒絶することだ。言葉に出さなくてもいい、黙々と生きるそのことによって、この世界には何一つ絶対的なのはないことを主張しつづけること。絶対的なものはなにもなくても、人間は動物のように生きてゆけ、しかも人間であるゆえの心の優しさや礼儀正しさを保ちうることを証明してみせることである。西村が共苦の観念――いや感情を固執し、何十億となく生きている人類の中の、どうした偶然からか、ふと知り合った少数の人々との交情を運命として受けとめ、それを大切にしつづける態度も、藤堂には解っていたのだ。その交情こそが、日常性の泥沼の中に咲くただひとつの蓮の花であり、思想の花であるからだ。超越的な党派は信じないが、友情は信ずるという彼の古風な観念もまた、やはり〈廃墟の思想〉にちがいはなかったのだ。
 だが、いま藤堂の目の前にいて、理由もなく微笑している西村は、かつての、目立たぬ、目立たぬながら彼固有の指針をもっていた西村の形骸にすぎなかった。日常性を尊重しようとして日常を裏切り、友人に頼りながらもはや友人を信ぜず、藤堂自身がそうであるような自己崩壊の道をじりじりと歩んでいる。古在の呼びかけに対しても、彼は一体どういうつもりで参加しようとしたのか。いま態度をあらためて、徹底的な破壊への道を意志して歩もうというのか。そうとも見えない。それなら、日常性の重み、地球より重い、庶民の怨念のこもった日常の側から、その破壊を阻止し、くいとめようとしているのか。そうとも見えない。ただ悲しげに微笑し、誘われればどんな場所にも顔を出し、ことのなりゆきを墓石のように眺めているだけにすぎない。
 いまは一片の愚かしい思い出にすぎないとはいえ、藤堂が日浦に対する喉の渇きのような感情を抑制したのは誰のためだったか。この男が、埋もれようとする名もなき生活、彼がそこに培養し成長させるだろう一輪の花への期待のためではなかったか。
高橋和巳「憂鬱なる党派」『高橋和巳全集 5』448-449頁

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