自らの影『高橋和巳全集2』431-432頁

汝ら法則に従い法則に死ぬものたちよ。人のあとを追うのでなければ、死文にしがみつき、さもなければお互いに牽制しあって、小さな境界のうちに侵しあうことなく住もうとする人間どもよ。いや、猿どもよ。荒涼とした大地を切り開きこれだけの幾何学的な建築をなしうる技術をもちながら、その建築物を裁判所と名付け、矮小な希望、いじけた欲望について、とり澄ました議論に憂身をやつすことを矛盾だとは考えないのか。むしろ建物全体を暗黒の宮殿と化し、チェザーレ・ボルジアのごとく大淫蕩に耽ることのほうが、まだしもましだと思わないのか。
 富田よ。死せる富田よ。君はいつか、この世界から法を一切追放し、いっさいの外的規範を死滅せしめよと叫んでいた。君はその法なき地獄の、みずから法をつくりだす存在、欲するがままに行なって常に法たる超越者たらんとして苦行した。しかし、富田よ。いっさいの権力、すべての束縛を棄絶してのち、みずからの力によって暗黒の世界へ一歩をふみだす人間がここにいるだろうか。過去の判例をその言説にちりばめ、揚足とりに得々としている弁護士、わずかな補償、小さな安息を願う原告、そして業務に疲労し、解放されることを夢見ている書記、背後から命令の発せられることを待っている廷吏、さらに記憶した六法全書の頁を手探りし、ときおり自信なさそうにその解釈をわたしにたずねる裁判官に、さあ、自由だ、君たちは勝手に歩みだせ、と号令したとき、彼らは歩みだすだろうか。自己の影に怯えて立ち竦むのでないだろうか。」
高橋和巳「悲の器」『高橋和巳全集2』431-432頁

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