飯を食う『高橋和巳全集2』108-109頁

悲哀ではなく、腹立たしさが私の胸をしめつけた。何にむけてよいのかわからなぬ腹立たしさだった。週に一度は会っておりながら、久しく真向から見交わしたこのない目を私は見た。目標の定まらぬ怒りは、死者から弟へ、私の視線の動きにつれて動揺した。米山みきの現れるのがいましばらく遅ければ、私は発作的に――発作的に何をしただろうかは、現に起こらなかったことを人は明言できないが、すくなくとも私は自暴自棄な発作に自分を忘れていたことだったろう。米山みきは簡単なお握りだけれども、食事の支度が整っていると伝えた。米山みきの悼みの表情が真摯なものだっただけに、一層その申し出は奇妙に感じられた。食事?いったい、何故いま私は飯をくわねばならないのか。どうした経験が、米山みきに、そうした智慧あたえたのか。たしかに私は腹をすかせていたのだが、取り乱した私はそれを感じなかった。たしかに、どんな悲嘆、どんな大思想の湧出、どんな戦いの場にも、人は食事をし排泄をせねばならぬ。泣きながらでも、怒りながらでも、その泣くことや怒ることためにも人は飯を食わねばならぬとは……。
高橋和巳「悲の器」『高橋和巳全集2』108-109頁

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