見出し画像

同質性と異質性【二項対立 01】

現代は「異質性」の時代か?

今日は、「多様性の時代」とも言われるように、人と人の多様な差異を尊重する時代だと思う。私たち一人ひとりが、かけがえない個性としての差異を持っていて、その異質性にこそ価値がある。あなたと私は違うのだから、片一方の感性を強要してはいけない。そんな感覚が社会に浸透しつつあるのが、現代社会ではないだろうか。

差異に注目する異質性の考え方は、とても重要だ。
私たちは同じ人類であっても別の人間で、同じ日本人であっても別の人間で、見かけが同じ性別に見えても別の人間で、同じ大学の学生でも別の人間である。「日本人は~~~だ」とか、「男性/女性/特定の性別は~~~だ」とか、「○○大生は~~~だ」とか、大きい主語で「私」という一人が語られてしまうことに、抵抗感を抱く人は多いと思う。

一方で、私たち(人間)には、いかなる差異にも還元し得ない「同質性」が共有されているように感じることもある。
今日も同じ満員電車に揺られる○○線ユーザー達、いま同じスタバで勉強や作業に勤しんでいる同志たち、地元が同じ人、同じアイドルを応援している人。家族や恋人や友人やSNSのフォロワー達に、自分と同じ感性を期待することだってあるだろう。私たちは根本的に異質であるとしても、あたり前のように同質性の中でも生きているのだと思う。

「同質」と「異質」の重ね合わせ

「同質でありながら異質であり、異質でありながら同質である。」
これが私には現実であるように思える。例えば、千代田線ユーザーたちは、千代田線あるあるを共有し、千代田線で生きることに慣れていて、その点では同質的だ。一方で、千代田線ユーザーたちの同質性は、千代田線を利用しているという点だけでもある。それ以外の点では、異質な点の方が多いだろう。電車の中の過ごし方だって違うし、降りる駅も違うし、向かう先や帰る場所も違う。そもそも、別の個人なわけだ。

ただ、極端に異質性を信奉することは、現実を的確に捉えていないように感じるというのが、私の見解である。極端に同質性で括ることが直感に反するように、極端に異質性を尊ぶやり方も直感に反するのだ。

私とあなたは、完全に同じであることはあり得ないのだが、完全に異なっているということもあり得ない。

「私とあなたは同じだね」
「私とあなたは違うね」
どちらも人間の美しい言葉で、どちらも人間の暴力的な言葉である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?