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Salon de Picaresque -90分で起きたこと-

「アート作品を見ることがゴールだと思っていたけど、アートを通して色んな”今”を考える事ができるんですね。」

「作家も今の時代を生きる人間で、自分のこれまでの個人的な経験を通して絵を描いている。それは鑑賞者も同じことで、それぞれが自分の生きてきた道を通して作品を見る。だから、同じ時代を別々に生きてきた者同士、作家と鑑賞者は対等な関係であっていいんじゃないかな。」

先日Picaresqueにて初めてサロンを行いました。Picaresque主宰のギャラリスト・松岡(以下いつも通り“うたさん”と呼ばせていただきます)と一緒に一つの作品についてじっくり話し合うこの企画は、前回の記事(91年生まれの未来)に書いたように、対話型鑑賞というPicaresqueの特徴であり強みを活かしたイベントとなっています。

そんな記念すべき第一回目のサロンでは、立原真理子さんの作品を眺めながら90分間に渡り5人で語り合いました。一つの作品について比較的少人数で一時間半も話をするという事で、ファシリテーターのうたさんも始まる前は少し不安げでしたが、いざやってみると、参加者全員が新しい気づきを得る事ができました。

冒頭にあるコメントは、実際に参加して下さった方々がサロンの終盤で発言されていた事です。どうして参加者たちがこのような結論を得られたのか、サロンでの話の内容を、時間を追って少しご紹介します。

まずは参加者全員が作品のイメージをそれぞれゆっくりとメンバーに伝えるところから始まります。最初は一言ずつぽつぽつと、次第に言葉の間を補足するように、時間の経過と共に自分の得た感情の微妙なニュアンスまで語れるようになっていきました。5人いれば5通りの感じ方がある、という事は頭では分かっていたものの、お互いにじっくりと耳を傾ける程、その違いはどんどんはっきりしたものになっていきます。

そうして最初の30分程を作品の印象について話し合っていくと、自分の中で目の前の絵が全く別の風景に見えるようになりました。この時点で、絵を説明する時に、全員が自分のこれまでの体験を参考にしているという事が分かってきました。例えば、川の話になった時。私は多摩川の広い河川敷を思い浮かべながら話しをしていても、それを聞きながらアメリカ出身の参加者は昔遊んでいた遠い故郷の川を思い浮かべていて、そこからまた違う意見が出てきます。

そして、それはきっと作家も同じ事なのです。作家の目を通して見てきた世界が、作家の手によって絵という形になっているのですから、「世界を自分の手で切り取り、それを誰かにシェアしている」という意味では、作家も、絵を見て語る鑑賞者も、同じ立場といえるのかもしれません。

サロンが中盤に入ると、立原さんの絵が懐かしい風景を思い出させてくれたり、ふと面白いストーリーを思いつかせてくれたり、絵を通してそれぞれの頭の中の記憶がどんどん刺激され、より自由な意見が出てくるようになりました。過去・未来・今と、場所だけでなく時間軸も飛び越えて話しができるようになっていき、気が付けば、皆アートの話をしているようで実はアートが連想させる私たちの様々な想いを話すようになっていました。こうして1時間以上話し続けて、「ひょっとしてアートを見ながら世の中について考えているのでは」という意見が出てきたのでした。

このようにして90分間があっと言う間に過ぎ、目の前にある絵の印象はガラッと変わってしまいました。それだけでなく、絵を見るという行為にまで、サロンという実体験からこれまでになかった考え方が生まれました。アートというのは、一つの作品でありながら、アートを通して何かを考えさせる媒体でもあるようです。場合によっては、普段お酒がないとできないような熱い話がアートを介する事ですんなりできちゃったりします。私がこのサロンを通して感じたのは、アートは他人のこれまでの人生を知らずとも、その人の考え方を知ることのできるツールであるという事でした。その人にどんな過去があったのかを聞かなくても、絵を見てどう感じるか、それをどう伝えてくれるのかで、相手の人となりが少しずつ見えてくる様に感じました。「あぁ、居間にアートがあったら面白いだろうな。あの人を呼んだら、どんな会話が生まれるだろう。」とふと思い、実はこんな風に感じられたのは初めてかもしれないと、自分の中のアートとの向き合い方に小さな変化が起きている事に驚かされた日曜日となりました。

桑間千里

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