なんで「突き抜ける」ことを目指さなきゃいけないの?

世の中には沢山の自己啓発本がある。言ってる事はみな違うけど、目指すところは大体同じだ。突き抜けること。100万人に一人の逸材になること。

だから書き手は必然的に、100万に一人の逸材になる。そうじゃない人が何を言っても説得力がないからだ。これがまた、100万人に一人の逸材を目指すべく空気をつくりだす。

いわく、好きなことに没頭せよ。いわく、100人に一人を3つかけ合わせろ。いわく、とにかく数をこなせ。いわく、自分の信念をつらぬけ。

それを読んだ人の大半が100万人に一人の逸材になれないのは、理解しても行動に移す人は少ないから、ということになってる。

でも、ちょっと考えて見てほしい。本当にみんな何百人に一人の逸材になって突き抜けたいんだろうか。本当にみんながみんな、それを目指す必要があるんだろうか。

だれかが100万人に一人の逸材になったとき、残りの99万9,999人はどうすればいいのだろう。残りの99万9,999人は不幸なんだろか。残りの99万9,999人はつまらない、とるに足らない存在なのだろうか。

それは絶対に違うだろう。なんだとしたら、99万9,999人が幸せになるための方法論こそが、大いに語ら論じられるれるべきだ。

自己啓発本を読んだ人の大半が100万人に一人の逸材になれないのは、多くの人は100万人に一人になる必要なんてないからじゃないか。

それでもそうした自己啓発本を読むのは、99万9,999人の人が幸せになるための処方箋がないからじゃないか。

ぼくはそれは一言でいうと、「自分だけのやりかたで人の役に立つ」事だと思っている。この事についてはまた後ほど詳しく書こうと思うけど、とにかくまず言いたいのは、みんながみんな「突き抜ける」ことを目指してなんかないし、そうする必要もないということだ。

<昭和の時代>
・全体主義→全体のために個がある→会社や国のため、個を殺して働く

<平成の時代>
・個人主義→個のために全体がある→好きな事をして生きていく

<令和の時代>
・ホールネス→全体と個がお互い支え合う→自分だけのやり方で世の中に貢献する

ホールネスは、臓器と身体の関係のごとしだ。それぞれの臓器は個としてそれぞれ欠くことができないけど、身体全体があってはじめて存在できる。それは身体全体にとっても同じ。

最近、あの頃はどこもブラックで今思うとよかった、今の若者は無理できなくてかわいそう、みたいな昭和トークをよく聞く。これって平成の個人主義が揺らいでるのだと思っている。でもそれは全体主義に戻る、ではなく、ホールネスに移行する前触れなんじゃないか。

個と全体はお互いを支え合っている。そして、突き抜けていてもいなくても、全体はすべての個を必要としてるし、個も全体あっての存在だ。

そんな時代がきっともうすぐ来る。突き抜ける、という思考とは、もうおさらばしていいかもしれない。

おわり

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