「申し訳ありません」社会と「ありがとう」社会

生まれる前の記憶、胎内記憶を研究している人たちがいるらしい。その科学的な信憑性はさておき、胎内記憶があるという子供にインタビューをして、どうして生まれてきたの?どうしてお腹の外に出てきたの?と聞くと、みんな同じことを言うそうだ。お母さんの役に立つためだよ。お父さんの役に立つためだよ。

 僕はこの話がとても好きだ。確かに誰もがみんな、根本的には、人の役に立つために生まれてきていると考えているからだ。胎内記憶の科学的な信憑性にはあまり興味がない。人の役に立つ、というとき、ある人にとってはそれは目の前の誰かかもしれない。別の人にとっては今を生きる全ての人かもしれない。あるいは30年後、300年後を生きる人類の同胞かもしれない。いずれにせよ、根源的にはみんな誰かを助け、誰かの役に立つために生まれてきて、生きている。
 
 だから幸福ややりがいの本質というのは、人の役に立てて、それを実感でき、しっかりと感謝されることだ。感謝されることは、精神面では人が生きるための最も根本的なエネルギー源だと思う。でも我々は、普段どれくらい「ありがとう」と言っているだろうか。

 出張なんかで海外に行って1~2週間英語で過ごし、日本に帰ってくると、随分「ありがとう」と言う機会がないなと感じる。コンビニで何か買って、お釣りを受け取り、商品が入ったビニール袋を手に取る。英語だとここで「サンキュー!」なのだが、日本語で「ありがとうございます」と言うのも不自然だし、「ありがとう」だとなんだか偉そうで気がひける。結局目を合わせ、軽く頭を下げるくらいが関の山だ。ビジネス上のやりとりも含めると、日本に帰ってきたとたん、ありがとうの数が1/10くらいになる。

 そのかわり、日本には「申し訳ありません」が沢山ある。「お忙しいところ申し訳ありません」「詰めが甘くて申し訳ありません」「恐れ入ります、お手数おかけします」。これらは慣用表現なので話し手は本当に申し訳ないと思っているわけではないだろうが、口に出したり書いたりした言葉には言霊が宿る。無意識ながら、聞き手は「許した」、話し手は「許された」と感じ、恩義の負債が溜まっていってしまうのだ。許された方は負債を負って引け目を感じ、次からはさらに下手に出ることになる。このようにして、得てして売り手と買い手には上下の関係ができ、それが固定化しまう。

 買い手側が、あるいは売り手側が相手の取引先と本当に対等なパートナー関係を築きたいのであれば、「申し訳ありません」「恐縮です」を禁句にすべきだ。失礼にあたる?いや、それなら、それらを全部「ありがとう」で代替すればいいのだ。「お忙しいところ申し訳ありません」の代わりに「呼んでくれてありがとうございます」。「詰めが甘くて申し訳ありません」の代わりに「フィードバックありがとうございます」。「恐れ入ります、お手数をおかけします」の代わりに「ご対応いただきありがとうございます」。そういう風に自分が、そして相手が使う言葉を注意深く見て直していけば、普段使うほとんどの「申し訳ありません」は撲滅できる。そして、そのぶん「ありがとう」が増えるのだ。

 自分は客だらか、上司だから、法律で決まっているから相手はそれをやって当たり前。「ありがとう」は言う必要ない。そんな考えを、「申し訳ありません」が生む恩義の負債は助長してしまう。それらを禁句にして、ちょっと頭を切り替え、あるいは不自然にならないよう言い方を工夫して(「どうも!」とか)、些細なことでもしっかり感謝を伝えるようにする。するとそれが積もり積もって、社会全体で幸福ややりがいが今よりずっと増えてくるんじゃないかと思う。誰もがみんな、人の役に立つために生まれてきて、生きているんだから。

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おわり

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