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ピアニカたろうの『ピアニカを吹きながら 』#6 勝負の方程式と落合博満野球記念館

ぼくは落合博満さんのファンです。

子供のころ落合選手のファンになってプロ野球を観る楽しみを知り、落合選手の野球(仕事)に対する姿勢から、プロとして職責を全うするとはどういうことかを教わったと思っています。

今回は落合博満さんの著者『勝負の方程式』と落合博満野球記念館について書きました。

よかったら読んでみてください。

『勝負の方程式』は平成6年6月6日発売。

落合選手は平成5年シーズンオフにFA宣言をして長嶋巨人に移籍。

「子供のころ憧れた長嶋さんを胴上げするためにきた。監督である長嶋さんを首にしたら、末代までのいい笑い者になる」

入団会見での落合選手の言葉に「並大抵ではない覚悟」を感じ、ぼくは今まで以上に落合選手を応援しようと決めました。

平成6年シーズン、巨人軍創設60周年で60人目の四番打者として背番号60をつけて挑んだ40歳の落合選手。
打率280、ホームラン15、打点68というシーズン成績は落合選手からすれば到底満足できる数字ではなかったと思います。

それでも、

4.9開幕広島戦(1号)、10.2ヤクルト戦(14号)、10.8ナゴヤ決戦(15号)など、ここぞという場面で打った見事なホームラン!
ぼくは忘れられません。

度重なる死球による怪我を(肋骨骨折さえも)隠し、激痛に耐えながら試合に出続ける姿。子供ながらに心を打たれました。

テレビ中継に映る落合選手から「試合に出る以上、チームの勝利のために、優勝するために、体調が万全でなくても最大限の仕事をする」そんな強い意思を感じました。

10月8日ナゴヤ決戦に勝ち、長嶋監督と抱き合い涙した落合選手。テレビ観戦していたぼくももらい泣き。西武を倒して日本一になった時はもらい笑顔でした。

ぼくにとって、平成6年の落合選手は三度の三冠王を獲った頃より強く印象に残っているのです。

『勝負の方程式』には、チームメイトやライバルとのエピソードも書かれており、その文章はそのまま、当時のプロ野球の魅力を物語っているように思えます。

簡単に4つ紹介します。

私と山田(久志)さんとの関係は、どちらが勝っても負けても、シンカー勝負だった。(『"H"のランプが持つ意味』 より)

エース(村田兆治さん)がほうるときは、絶対に負けてはいけない。これは、野球の鉄則である。エースには、自覚と実績と野手の信頼感が求められる。逆にいうと、これらをかねそなえてこそ、エースと呼ばれるわけだ。(『エースの仕事、四番打者の仕事』 より)

「バッターを育てるのは、ピッチャーや。おれらが、バッターを育てるんや。落合なぞ、その代表…」これは、鈴木(啓示)さんの口ぐせである。(『チームワークでエースを攻略する』 より)

「おれ、石毛とは全打席勝負する。その代わり、全部抑えてやる。だから、おまえは打て」と決まって声をかけてきた。その言葉どおり、村田(兆治)さんは全打席きれいに石毛君を押さえた。(『ヒントをくれた投手との駆け引き』 より)

最後に、ぼくが和歌山県太地町にある落合博満野球記念館を訪ねた時の思い出を書きます。

数々の貴重な展示品をひとつずつ真剣に見て、2階の喫茶『ベースボールヒーロー』で雄大な熊野灘を眺めながらアイスコーヒーをいただきました。何とも贅沢で気持ちよい時間をすごしました。

落合さんと信子夫人が滞在中で、落合さんご夫妻とお話させていただく機会がありました。
ぼく以外にも数組のお客さんがいて、落合ご夫妻を前に緊張しすぎて思うように話せなかったけど、信子夫人から「展示品をとても真剣に見てくれてたわね。ありがとう」と言われ感激しました。

いつかまた訪ねたいと思います。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

たろう









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