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Review by タカザワケンジ

 写真集の著者は写真家である。

 しかし写真集というジャンルを育て、1つの文化にまで高めるためには多くの人の手が必要だった。デザイン、印刷、製本、そして流通。そもそも書籍がそのような文化をつくってきたのだが、写真集の場合はとくにデザインや印刷・製本の力を得て独創的な世界をつくりあげてきた。文芸書評で本の装幀にまで言及されることは稀だが、写真集の場合はむしろ装幀や印刷製本を抜きに論じることは難しい。写真評と写真集評は違うのだ。

 Print House Sessionは写真集がどのような可能性を持つかを探る試みである。

 4つの印刷会社、4人のデザイナーがそれぞれペアになり、1つの写真シリーズを写真集にしている。前回(Print House Session 2019)は横田大輔の作品、今回は奥山由之の『windows』シリーズが与えられた。

 私も写真集を編集、構成した経験がある。その経験から思うのは、写真集には想像する以上にたくさんの選択肢があるということだ。写真というスタート地点は同じでも、ゴールは無数にある。写真をどう構成し、デザインするのか。判型は? ページ数は? どんな紙を選ぶのか。中とじか、平とじか。ハードカバーか、ソフトカバーか。もちろん予算という枠があるため無限とまではいかないが、予算の範囲内でも選択しなければならないことは多く、1つの選択が写真集の道のりを分岐させ、思ってもみないゴールにたどり着くこともあるだろう。

 ここにあるのは、その結果、つまりゴールに着いた4冊の写真集である。


 サンエムカラー×岡崎真理子組はまず表紙カバーにインパクトがある。透明ビニルのカバーに一部手触りが違う部分があるのだ。写真の窓に合わせて凹凸をつけているのである。奥山が撮影した窓の写真に、昭和のガラス窓特有の凹凸デザインがあるからだ。ここに触れると読者の想像の中でカバーはガラスになり、写真を見る目が心理的に変化する。ページをめくると黒地に窓がランダムな大きさ、位置にレイアウトされている。建築物から窓だけが浮かび上がったような感覚は、オーソドックスな見せ方で説得力がある。


 山田写真製版所×Aaron Nieh組は対照的にタイポグラフィーのみのそっけない表紙である。正方形サイズ。中とじの背の部分(というかノドの部分)が膨らんでいる。手に取ると思ったよりも軽い。そのカジュアルさがページをめくる指を軽快なものにする。窓と青のイメージとが重ね合わせるようなデザイン上の遊びもあり楽しい。しかも中とじの中央は表紙と色違いになっており、折り返せば中とじ部分が表紙になるというリバーシブル(?)なつくりになっている。ノドが膨らんでいたのはそのことに気づかせるためなのだろう。


 東京印書館×田中義久組はなんとハードカバーである。判型は4組の中でもっとも小さい手帳サイズ。ページを開くと白ページが続く。写真は×箇所まとめて別紙に刷られている。写真が挟まれたメモ帳にようにも、束見本に写真が挟まれたダミーブックのようにも見える。写真が裁ち落としのせいもあり、作品を見るというよりも写真を見ているように感じる。メモとして使えば無地には文字だけでなくちょっとした絵や図を描くような気がする。その場合は奥山の写真はインスピレーションの呼び水となるだろう。


 LIVE ART BOOKS ×上西 祐理組はビニルカバー、判型までは奇しくも岡崎と同じだが、内容は大きく異なる。写真に大小をつけて織り込まれ、さらには大判の写真を四つ折りにして挟み込まれてもいる。紙が違うだけでなく、片面ずつ手触りが違ってもいて指が驚いた。バインドされていないのは、折り込まれた紙を広げる必要があるからだろう。それだけでなく、一度バラしてしまい、ページ構成を変えることもできる。読者がつくり変えることができる写真集なのである。

 4冊の写真集を見て感じたのは、写真集は身体を使って「見る」ものなのだということだ。触覚、指の動かし方、手で持った重さ、目との距離。液晶からは読み取れない感覚をいかに感じさせるか。写真集は「見る」だけではない。必要なのは目だけではなく、身体感覚を開くことなのである。

Print house session 購入ページ
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