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特別な存在であろうとする弊害

「#あの失敗があったから」というテーマを最初見た時には「自分に失敗なんて存在しない」と思っていた。たとえ一時的に目的を達せられなくても、将来的にその目的を達せられれば今は失敗でも将来は失敗ではなくなると思っているから。だから、このテーマで記事を書く自分が想像できなかった。

そんな時、会社内で2021年上半期の成果発表が行われることに。

振り返っても「自分に発表できる成果なんてないなー」と悩んでいたので上司に相談したところ、

「うちのチームに来てからかねごんが全力を出しているところを見たことがない。

と言われた。その場では色々と反論をしたり、逆に今後全力を出すためにはどうしたらいいかを相談したりしたが、心当たりはあった。自分の性格的には挑戦を避ける、チャレンジをしない傾向があることは自覚している。

「"失敗なんて存在しない"というのは、単に自分のできなかったことから目を背けて心の平穏を保っているだけでは?」

と気づいた。失敗とは自分の中にある負を認めることだと思う。たとえ一時的にせよ、何かを出来なかった自分の存在を認めることはツラい。ツラいからこそ蓋をしてきたはずだと思って、ノートに自分の失敗体験を書き出してみたところエピソードが出てくる出てくる(笑)。思いがけずして掘り起こされた失敗群の中でも一番ふりかえりたいと思ったのは大学時代のことだった。

話は少し戻って高校生の頃。当時、僕は高校教師になりたかった。

理由は当時の国語の先生に影響を受けたから。その先生の授業は本当に毎回楽しかった。民間企業での就職経験があり、他の先生方とは違った独自の学習理論で授業が組み立てられている。そのおかげもあって、きちんと教科書の中身についても定着が進んで、生まれて初めて国語の授業を待ち遠しいと思った。

そんな先生の影響を受けて、「楽しく学びの得られる授業を生徒に提供できるような先生」を僕は目指し始めた。

受験を乗り越え、僕は無事に第一志望の大学に合格。「高いレベル教育を受け豊富な知識を身に着けられる」とワクワクしていた。

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しかし、大学入学後の自分は高校時代に想像していたキラキラしている自分とは程遠かった。教養課程の授業は何度サボったか分からない。専門の授業は難しく全然ついていけなかった。今思うと「○○を学びたい」という具体的な意欲がなかったのかもしれない。

大学の授業を楽しむことが出来なかったので、無意識のうちに学外の活動に逃げ始めていた。高校時代の憧れの先生が他の先生とは違う経験をしていたため、自分も「周りの人が経験していない特別な経験をしよう」と考え、留学やインターンシップ、様々なアルバイトなどに取り組んだ。

そうしてキャンパスライフを過ごし、大学4年生の時に教育実習へ参加できることになる。でも、高校の教場にあった自分の姿は全く理想とはほど遠いものだった。自分が経験してきたことをおもしろおかしく話せはするものの、圧倒的に英語の知識が不足していた。

今思うと大学の授業をおろそかにしたつけが回ってきたのだろう。憧れの教師の一面だけを見て、基礎力をおろそかにしていたのだと思う。必要なことから目を背けて、自分が楽しいと思うことに興じる。

そうして、上司に言われた「全力を出せていない」という言葉を振り返ると、今でも自分が根本的には変わっていないことに気づいた。

自分がやりたいこと、楽しいことばかりやっていても目的は達成できない。目的に向けて必要な基礎力を泥臭く毎日どれだけ身に着けられているかが大切なはず。

色々あって今はIT系の会社に勤めているが、目の前に見えている課題に全力を尽くせるようにならないと、僕はこの失敗を「失敗ではない」と言い切ることが出来ないと思う。2021年も残り半分となったが、地道に泥臭く全力に仕事へ取り組んでいこう。

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