見出し画像

十一 癌と診断されるまでの話

ひとことで癌と言っても様々な種類があり、想像もできないような部位に巣食う癌もあることは知っていた。

10年前、父が70歳の時に咽頭癌と診断され、記憶に新しいところでは歌手のつんく♂氏が同じ癌であった。
発覚時、すでにステージ3だった父は声帯を残したい一心で放射線と抗がん剤に耐え長い入院生活を経て無事寛解。以降の検査でも転移は今のところ認められていない。

そんな父の体験を目の当たりにしていたことと、父の親族の多くは癌で亡くなっていた為、癌の家系であることは昔から理解していた。

癌宣告を受けた時、どこかその「癌家系だから私にもいつかは来る」という、覚悟というにはいささか頼りないが心構えに似たものを持っていたためひどく驚かなかったことを覚えている。ショックではあったのは間違いないのだが。


          ◆◆◆

癌宣告を受ける前、何か初期症状はあったのでしょうか?と聞かれることがある。答えは

あった。

である。
私の場合は子宮頸がんであるため、不正出血が一番わかりやすいサインだった。
それよりも前におりものの変化があった。いつもより少し多い、匂いが変化した、そんな日々が1年弱ほど続いた。それが急に茶色に変化したことにより、出血を自覚した。


42歳。最初に思い浮かんだのは若年性更年期や、ストレスによる出血。きっとそういう年頃なのだろうとやり過ごしたが不正出血が2ヶ月続いてようやく何かがおかしいなと感じたのが2021年の2月末だった。
その夜、

「不正出血 原因」

とGoogleで検索をした。

"なんらかの病気が原因によるもの。
例:ポリープ、癌、炎症、子宮内膜症"

この時初めて、もしかしたら私は癌なのではないかと疑った。それまで一切疑わなかったのは癌になるとその部位だけでなく体力が奪われ全体的にひどく変化を起こすものだと思っていたからだ。

もしかしたら癌かもしれないが、もしかしたら違うかもしれない。心のどこかで間違いであってほしい願い、なかなか行動に移せず検査しなければならない現実から逃げていた。

2021年3月14日。
偶然にも友人に体調のことを話した。不正出血がしばらく続いていて調べたら癌かもしれないと出たと伝えると友人はいつになく真面目な顔でかすかに怒った口調で

「それは今すぐ検査して、すぐ病院に行って」

と言った。いつもにこやかで優しい友人が張り詰めた糸を弾くような強い表情で言うので私は急に怖くなり、わかった、行くね。と覚悟を決めたのだった。

その2日後、娘を出産した産婦人科を訪れた。

                             ◆◆

産婦人科で内診された時、おそらく医師は気がついただろう。これは癌だと。
私は癌のステージは1b1期(もしくは2期)であるが、この時点で既に目に見えて子宮頸部は変化を始めているのだと言う。

私の患部を見た医師は声色を変えずに
「子宮頸がんの検査、したことありますか?」
と聞いてきた。ないです、と答えたのだが今思えば医師はほぼ確信があって検査を促したのだと感じる。
能天気な私は帰宅後に、「今日、娘を産んだ病院に診察で行ったら、ついでにがん検診させられたわー」などと家族に報告したのを覚えている。

その日から10日後、私は翌日から長野に遠征するため荷造りをしていた。初めての北横岳の雪山登山に気分は高揚し、検診を受けたことなどすっかり忘れていた。
朝早くにかかってきた産婦人科からの電話に気がついたのは9時ごろであった。
留守電にメッセージが残されていてかけ直すと、受付の女性は口早に、焦っているような口調で「結果について医院長から直接お話しがあるとのことなのですが、診察に入ってしまったので後でかけ直しますね」と電話を切った。

癌だ。

直感で察した。医院長から直接結果を報告したいなどと言うときは、良い話ではないことくらいこの年になればわかる。
突然、私の内臓がぎゅっと握りつぶされそうになり、えもいわれぬ不安が全身を襲い私の視界は暗くなった。
癌のイメージがあまりにも悪すぎて死を連想してしまう。余命を言われてしまうのだろうか。転移があるのだろうか。
こうなると支度どころではなくなり、私はスマホを持ってベッドに寝転がる。慌ててGoogleを開き「子宮頸がん」と入力したが文字を打つ手はわずかに震えていた。

あらゆる病院のサイトがでてくる。

たくさんの文字を目で追っても全く頭に入ってこなかった。どんな種類のどのような症状の癌であっても、癌には変わりないのだ。

癌、癌、癌。

もうこの字すらも病魔の一端のように思えてスマホを投げ捨て目を閉じた。

瞼の裏に娘の顔が浮かぶ。
瞬きを数回しただけだと思ったのに、気がついたらもう14歳になっていた最愛の娘を思うと生きたい。まだ私はこの世に未練がありすぎる。

そんなことを考えていると投げ捨てたスマホがけたたましく鳴り始めた。画面には産婦人科の番号。すかさず応答すると医院長が出た。

「検査の結果、あまり良くない状態でして」

言葉を濁す。私は覚悟を決める間もなく反射的に癌ですか?と尋ねた。

医院長は一瞬間があったような気がしたが、低い声で「はい、恐らく癌であると思いますので大きな病院へ紹介状を書きます。再度検査が必要にはなりますがすぐに行ってください。ここ辺りなら関西医大でよろしいでしょうか?」と確かな空気を纏いながら答えた。

明日はどうか?と重ねて聞かれた途端に思い出した。私は明日長野に出発するではないか。
癌の検査と登山を天秤にかけるものではないと思う。もし友人に意見を求められたら100%全力で検査を勧めたい。

「すみませんが、週明けでお願いしたいです」

私は今すでにある予定を優先した。頭がおかしいと言われても良い。私はどうしても北横岳に登らなければならない気がしたのだ。

医院長は、では月曜日か火曜日で空きを調べますのでまた連絡しますと言って電話を切った。


「おそらく癌だと思います」

その「おそらく」と言う言葉に希望は1%も見いだせなかった。間違いなく癌であることは明確でその答えを覆せるとしたら検体を他の人と間違えた、くらいの出来事しか望みはなかった。

癌だとわかっていながら治療への道を後回しにし登山をするのは気が触れていると思われるだろうか。
しかし私はその選択を微塵も後悔しなかった。今も、もちろんしていない。

私の人生の歩みの中で初めての雪登山は、大きくて厳しく深い懐に許容されるような経験だった。標高2480mから見る景色は私自身がちっぽけで何にも役立たないような気にさせてくるくせに、生きていることを実感させてくれた。

胸に癌であることを秘めながらアイゼンをつけて踏み締める春の雪は全てを忘れさせてくれるくらい心地が良かったし、迷うことなく病に立ち向かう勇気と覚悟を私に与えてくれたのだった。

無事に下山した2日後、私は関西医大病院を訪れていた。

ここでこのブログの1話目に繋がることになる。


          ◆

子宮頸がんと診断されてから何度も何度も調べたのは癌そのもののこと。
ステージの段階はどのくらいあるのか、どういう癌なのか、生存率は、治療法は、転移は、とありとあらゆる方法で未知の癌を知り尽くそうとした。

子宮頸がんはまず遺伝性のものではない全く別物の癌ということ。
HPVウィルスによる感染がほぼで、男女関係なく感染している。しかし多くの場合は感染しても免疫力により発症せず感染を排除するのだが、排除できずに感染した状態が続くと発症し数年かけて子宮頸がんとなる。
そしてこの癌は検診で癌になる前の異形成という状態で発見されることができ、治療も軽く楽に終わらせられるため、私自身もこれを読む若い女性にどうか面倒臭がらず検診に行って欲しいと切に願う。

なぜなら、

おへそ横から恥骨の方へ16cm近く開腹し卵巣、卵管、子宮、膣の一部、基靭帯、骨盤のリンパ節を切り取る

手術(広汎子宮全摘)がこれほどまでに大掛かりで予後も後遺症に悩まされ、回復に時間を要することを身をもって知ったからである。

驚かせたいわけではない。
しかし事実として受け止めてほしい。

・16cmの開腹
これは人にもよるので全員がこの長さを切るわけではない。場合によってはへそ上まで切る人もいるため20cmにもなりうる。
が、これが想像を絶する痛みである。
武士が切腹をしていた時代があることは重々承知しているが毛頭信じられない。どれほどの覚悟を持っても私は16cmの切腹などできない。
それほどに大きな傷なのだ。

・卵巣切除
これは女性ならわかるだろう。つまり強制閉経になる。排卵がなくなり女性ホルモンが減少する。骨粗相症になりやすくなる。
生理がなくなるのは楽だと考える人もいるだろう。生理痛が重くて毎回寝込むようなことがなくなるのだから。
しかしその弊害は想像以上に大きい。

・子宮摘出
私自身はもう子供を持つ気がなかったので子宮がなくなっても構わないと思っていた。女性を表すものとしても、胸とは違い普段から目にすることのない子宮がなくなってもそう変わらないと思っていた。
しかし手術前日にいざ明日からそれがなくなるのだと思うと途端に不安になった。女性としてなにか欠落したような人間になってしまうのではないかと不意に涙が出た。
術後、子宮があった場所が凹んだわけではないが、そのあたりの空白を埋めるように腸が動いているのがわかった。寝返りを打つたびに内臓がゴソリと動くのだ。術後3週間経過し、ようやくその不気味な動きは無くなったように思う。腸がのびのびと活動できる場を見つけたのなら良いのだが。

・リンパ節郭清
術後まで、これがどのようなことなのかを理解していなかったが、おそらく一番厄介なことかもしれない。骨盤につくリンパ節を切除したのは癌がリンパを通って転移してるかどうかを調べなければならないために必要だったことなのだが、これにより私はいずれ訪れるリンパ浮腫に悩まされるだろう。
リンパ浮腫とはリンパの流れが止まり足だけが通常の大きさの何倍にもむくんでしまう状態を言う。発症すると治癒はほぼできない。それを予防するためにリンパドレナージュ(ドレナージ)というマッサージを毎日しなければならないと聞いた。またサウナや長風呂もできず、正座もNG、スキニーパンツなど股関節周りを締め付けるような服はおそらく生涯着れない。
術後に知ったこの事実にショックは大きかった。
真っ先に確認したのはランニング用のコンプレッションウェアのこと。日々のトレーニングでも必ず着用するそのパンツはかなり締め付けられる。説明をしてくれた看護師は回答できず持ち帰りとなったが、次の退院後の診察で聞いてみようと思う。


いかがだろうか。
これだけでもこの手術がもたらした、精神的苦痛や後遺症がどれほどかわかってもらえたかと思う。
こんな思いを自らしたい人がいるとは思えない。できることなら生涯こんな悩みを持たずに生きていきたいだろう。
だからこそ、子宮がん、子宮頸がんの検査を受けたことのない人は今すぐ受けに行って欲しい。
私は同じ境遇の人とこの悩みを分かち合えれば、と思いこのブログを書き始めた。しかし同時に、私のように「癌なんて自分の身にはまだまだ降りかからない」とどこから湧くのかわからないその自信で42歳までがん検診を受けなかった人を増やしたくない気持ちもあった。
おこがましいが、自分の立場を生かしてできることはそれしかないとも思った。

検査に行ってほしい。


                             
どうか苦しむ人が増えないように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?