参 タクシーのおじちゃん

東京に仕事できて、癌のことを知る友人宅で過ごした後、夜遅くタクシーに乗った。
実家までの3km、タクシーに乗り込んだ直後、運転手は私にこう聞いた。

「今日はなんの帰りですか?」

金髪頭の中年女性が23時過ぎにタクシーに乗りこみ、この何をしてる人なのかと単純に気になったのだろう。

なんと伝えたら良いか、少しだけ迷ってから

「私ね、実は癌なんです」

と話した。友達に励ましてもらった帰りなんですよ、と。
見ず知らず、もう2度と会うこともないだろう。私の父に程近い年齢の運転手になんでそんなことを言ったのか、私もわからない。

もしかしたらもう会うこともない相手だから気楽に言えたのかもしれない。

「へぇっ?!」

運転手はミラー越しに私をチラリと見て、目をひん剥いた。
飲み会の帰りか、仕事の帰りかと思っていたのだろう。少しアクセルを踏む力が弱まったように感じた。

続けて
「来週ね、手術なんですよ。7時間かかるんです」
と伝えると運転手は、はぁぁぁ、と言葉にならない吐息のような声を漏らしたあと

「私にはね43歳の娘がいるんですわ。癌検診を受けろって言ってるんですけどねぇ、なかなか受けてくれなくて。」

と続ける。
43歳の娘は私と同級生かもしれない。
私の年齢は伝えてないが、恐らく同年代だと思ったのだろう。

それから口早に、最近の医療は発達しているしまだステージは小さいんでしょ?それなら大丈夫、心配はいらないよ。と捲し立てた。

シートに寄りかかり、まだ続く運転手の真剣な声をぼんやり聞きながら、癌の話をしたことを少し後悔していた。

言うんじゃなかったな。

実家近くになり、1400円の支払いを済ませた後、レシートを渡しながら運転手は振り返って

あんたさ、ほんとに大丈夫だから。
絶対治るからさ。
負けちゃダメだよ?しっかりね!

とまったく根拠のない励ましを私にくれた。
ドアが閉まって、私はタクシーに目もくれず歩き出す。

けれど背中にはおじちゃんの笑顔が貼りついていた。
見ず知らずの人に話せたことは、私にとって大きい。今まで自分から癌だと告白することが怖かった。病に犯されていることは現実なのに、心のどこかでそれは嘘なんだと思いたい自分がいる、そのことを思い知り思わず泣いてしまいそうだったからだ。

東京は冷たい街だ。
多くの人が他人に干渉しない。
そんな冷たい街でもらった温かい気持ちを忘れないようにしたい。

おじちゃん、ありがとう。
頑張るね、私。

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