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ネットと亡霊の声

ツイッターで叩かれたからCMを自粛しました。
2chでの誹謗中傷がひどく芸能人が自殺をしました。
食べログの書き込みが悪くラーメン屋が店たたみました。


誰も疑う余地もなく、僕らはネット社会のど真ん中にいる。

そして、昔は拾われることのなかった個人の悪態みたいなものが、ことネット上では大きく残ってしまう。

駅のホームに吐き捨てられたガムは、いつまでたっても消えないように、ネット上のそれもほぼ半永久的に電子空間にこびりつき、時に人の人生に呪いをかけていく。


「まじであの店はくそ。」「あの芸能人は○○らしいよ、きっもーい」そんなレベルはかわいいもので、ネット上には深く陰湿で卑劣な言葉が砂の数ほどある。


皆が口々に道端に吐いたゴミ屑が知らず知らずの内に膨大にたまっていって、まるで亡霊の声みたいに、ネット空間を漂っている。


企業も個人も、そのなんだか分からない亡霊の声におびえながら、得体の知れない死神の顔色を窺って、穏便に事を起こさなければいけない時代になった。

だけど皆「ネットで叩かれる」ということの本当の正体を分からずにいる。


大学時代に、とある過激ヘイトスピーチ団体にまつわるドキュメンタリーを取材したことがある。

いわゆる、街頭で「○○は死ね!」のようなシュピレヒコールを繰り返す活動をしているところで、その時、その団体のメンバーが発していた言葉を、今でも覚えている。

「社会から認められなかった自分も、ここでは過激で卑劣なことを叫ぶだけで、存在が認められる。」


その団体には、何らかの人間関係の難点を抱えているタイプが多いようだったが、来る者拒まずのスタイルで、活動に参加しさえすれば、その存在が認められていた。
つまり、心の底から「○○は死ね!」とは必ずしも思ってはいないが、それを叫ぶことで、自分の存在価値の確認ができるという快楽が病みつきになると言うのだった。



同じようなことがネット上でも起きているのかもしれない。

人間関係や社会に傷や劣等感を持っている者がリアルの場で発言することは少ない。そして、その声が皆から聞かれ賛同されることももちろん少ない。

しかし、ネット空間はあまりにも公に開かれていて、口を開くよりもはるかに簡単にキーボード1つ叩けば発言ができる。
そう、来る者拒まずだ。


そして、ネット上では「○○は素晴らしい」よりも「○○は本当は悪」といった発言のほうがはるかに注目を浴びる。
だから、いびつな承認欲求は増々過激な発言となって現れてくる。

また、この認められるというパイは大きければ大きいほどその快楽は大きい。
つまり、仲間を多く作れるネタだ。


敵と味方、加害者と被害者、政治家と市民、犯罪者と一般人、民族と民族、宗教と宗教。


これらの構図を巧妙に作り出し、相手の弱さに追い打ちをかけ、剥き出しの正義を自分が振りかざせるときに、その快楽は最高潮に膨張する。
ネット上では、多くの『仲間』がいとも簡単に集まる。


敵を声高に責め立てる自分という英雄像。その姿は街頭でヘイトスピーチを叫ぶスピーカーを握る姿と重なる。

その声を上げるときに、自分の存在価値が満たされる陶酔感に浸れるのだ。



ネットに潜む亡霊の声の正体は、本当は認められたい、愛されたい、癒されたい、そんな心の孤児たちの、虚ろな鳴き声の集合体なのかもしれない。

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