見出し画像

「新写真論」のこと。月末読書会を終えて

物量によって人間を見出しちゃう気がするんです。どうも、神山です。

 オフラインとオンライン、2回に及んだ月末読書会「新写真論」が終わりました。思い返せば6月13日のバビロン読書会からずっと、毎週末に読書会に参加していたことになります。ので、それぞれ別の独立した本・読書会にも関わらず、どこかつながっている話だな、ということも思ったりしました。というわけで月末読書会2020年6月の感想記事です。

タイトルについて

 本書のタイトルは「新写真論」ですが、扉にある英題は「An Essay Towards a New Theory of Photography: Smartphons and the Face」であり、これは随筆であり論ではないこと、あくまで新/写真論であることがここから読み取れる。英題でAn Essayが出てくるのはちょっとズルいよね、という話をしました(それはゲンロン叢書での統一題「新○○論」に縛られてしまっているから、というのもあり仕方のないことだ、とも)。個人的には「スマートフォンとSNSがセットになった新しい写真観」「写真3.0」「写真それ自体のシステム」などを読むと新写真/論に近く読めたので、本書はあくまで既存の写真論の更新に過ぎないというスタンスなんだな、と思ったり。「自撮りが手軽にできるようになった」「カメラやフォトアプリ自体が”いい”を簡単に提供してくれる」というラインから走れば新/写真論なのかな。

著者の物事の捉え方について

 結婚式のエピソードや猫の写真の話、菅官房長官や妻の祖母の話、そして子供の顔の変化についての話を読むと、どうしても大山さんが特別ほかのひとより、人間や生き物に興味がないのでは、という風に感じられる。というのが、オフライン・オンライン読書会通しての感想でした。カメラの技術の進歩やAIによる自動化は人間の手から写真が独立して「いいね」を取得することができるようになる、シャッターを押せば望み通りの写真が撮れるようになる=「望んでいるものはこれでしょう」とAIに提供されるようになる方がいい、という写真・カメラ観からも著者は写真側と人間側でいえば写真側の視点から記述していると思われた。

 一方で、ぼくはわりと写真側・システム側の人間かな、と思っていたけれど、そうでもないことが発覚した読書会でもあった。もともと単なるエロ自撮りを流すことを目的としているアカウントの写真の量がある閾値を超えると、たとえもともとが単なるエロ目的、無情報な一つの女体、の写真だったものが集積することで、キャラクターが動き出し、物語を生成し、単なるコンテンツではなくて(自分と同じ)人間であることを思い出すことがあり、そうなると「無情報な一つの女体」へ返ることができなくなる。ゆえに、単にスマホとSNSの進歩により、顔と身体を晒すことはリスクであるだけではなく、同時にそれが自身を人間たらしめる方法のひとつでもあるのではないだろうか。

 量が写真を変えた、というのは本書235頁の小題にもなっており、機器の進歩によって大量に写真が撮れるようになった今、筆者は現在と過去の連続的な変化を確認できるようになる、もはやここにあるログ・証拠は過去ではなく「いま」に属するあたらしいものだ、と述べている。しかし、ぼくが感じたことは、むしろキャラクターが物語を生成してしまうことで、提供されていない空白を読み込んで人間として認識してしまうようになる、ということだ。ぼくは人間側の視点で、人間を信じて写真を撮ったり、視ているようだ。

スクリーンショットと自分の物語

誰が撮っても同じようになるはずの(個性があるわけがない)ゲーム画面のスクリーンショットをどうしてぼくたちは撮影して、シェアするのか、という話。ぼくたちは経験したものを「自分のもの」としてそれらを共有している。

結婚披露宴で参加者がみんなあくまで自分のスマートフォンで新郎新婦の写真を撮りたがるのは、写真を手に入れたいからではない。[……]そうではなくて、披露宴に参加して花嫁花婿を見たという経験を、シャッターボタンを押すことによって確かめている。[……]スマートフォンのシャッターボタンはいわば「経験値UPボタン」なのである。
 「いいね」ボタンやシェアボタンも同じだ。[……]こんにちのSNS写真ではシャッターボタンを押すことと「いいね」/シェアボタンを押すことの間にほとんど区別がない。(新写真論p.180)

 これを書きながらいま(2020/7/5 8:02)思い出したのは、さやわかによる「涼宮ハルヒ」シリーズについての文章(キャラの思考法 p.119-「ゲームのように」)。ここでは、世界を変えるさまざまなきっかけが理不尽な二者択一である一方で、そのトリガーとなる行動それ自体はとても軽い、という話をしている。

『ハルヒ』は、時間旅行SFやノベルゲームなどと比較しながらゲーム的な「やり直し」の構造と内容をもたらすものとして説明できるものだ。しかしつぶさに見るとこの作品はより本質的な方向へと拡張されたゲーム的リアリズム(東浩紀)に基づいて書かれているというわけだ。[……]全く、我々の現実の中でそれに近い選択があるとしたら、それは核ミサイルの発射ボタンを押す支配者になった時くらいであろう。しかしながら昨今、我々は人生の岐路がそうした、軽い、それ自体には何の意味もないきっかけによるものだと、いささか感傷的に信じたがっている。リアリズムとは本来、こうした感傷に名付けられるものなのだ。(キャラの思考法p.128)

 著者が語るよりも、すこし切実な思いで、ぼくたちは(みんなとおなじ)スクリーンショットを撮ったり、テレビの写真や写真の写真を撮ったりするのかもしれないね。というのが読書会での見解でした。

写真3.0とWeb2.0

 スマートフォンとSNSにより大量のタグを付けられて蔓延する「写真3.0」は写真としては3.0だけど、webとしては2.0くらいな気がしており、遅いインターネット的には文章の読み書きのような、写真鑑賞と撮影の修練の時代が来るのでは?という直観(進化したカメラAI自体が修練をしている?) がある。AIが勝手に望み通りの写真を撮ってくれるようになる、という話について、それは「よい」のか?という気持ちがあるから微妙に感じてしまうのだろう。事実として今後もオンラインオフライン問わず、様々なメディアに大量に写真や画像が生成されてゆき、それはおそらくそれぞれのアプリやサービスが自発的に取捨選択や加工を挟み「よい思い出」を生成する、それはそれとしてヒトが撮る唯一無二の写真も共存していくのでは。「新写真」と「写真」が異なるものとされる未来が待っているのではないか、とぼくは思うのだ。僕たちの視神経周りの個体差に限ってもバラバラではあるし、身体的に視ている世界が同じである、とは考えにくいので。もっとも、人間の肉体は不完全であり、こと世界の視覚情報を捉えるのはカメラの方が完全である、のかもしれないけれど・・・。

おわりに

 計8時間、のべ10名で開催できた月末読書会「新写真論」、個人的には今までで一番、読んだ本について考えて、言葉にしたものになりました。今後も様々な本の読書会をしていくかと思いますので、参加のほど、よろしくね!次回はラテさんが選ぶよ!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?