見出し画像

目薬と胃薬、または越えられない一線


持病の影響で、ドライアイ、ドライマウスが重篤です。
ドライアイ用の目薬で処方してもらったのが、ムコスタ点眼液。ムコスタと言えばご存知の方もいらっしゃるでしょうが、普通はきっと胃薬です。
え、胃薬が目薬??

胃も目もどちらも粘膜だって分かっていれば、そして、ムコスタが粘膜の保護や修復をする働きがあると分かっていれば、何の不思議もないどころか、当然使うでしょう!となるんでしょう。私も説明されれば、あぁなるほどと思いますが、そこには結構大きな一線が横たわっている気がします。
患者ではあるけど医療者でない私は、胃薬と目薬は全くもって別の物という括り、カテゴライズをしていたということですね。錠剤や粉薬vs点眼液という形態の違いも大きいでしょうし、そもそも胃と目って機能が違いすぎる。身に備わっていて身近すぎることが逆に盲点になるというか。

カテゴライズは便利だけど

胃薬と目薬のようにカテゴライズしておくと何かと便利ですよね。様々なものをそれぞれにカテゴライズしているから、スムースに判断できます。

例えば洗剤。〇〇用、〇〇専用って用途別にたくさんありますよね~。
例えば本。文学書、レシピ本、学習参考書、ビジネス書など細かく分類されてます。
例えば学歴。高卒、大卒、院卒とか。
例えば血液型。A型は真面目、B型は自己中、O型はのんびり、AB型は変わってる、とか。
例えば人の評価。Aさんはそういう人だから(私とは違う)、Bさんはああいう人だから(Cさんって似てるよね)、とか。

でも、便利の裏には罠というか落とし穴もあります。
家庭の水回り用洗剤なんて本当は1つ2つで事足りるのに、〇〇用って言われるとそれじゃないといけないと思ってしまう。
ああいう人(だから私とは違う)って思うとそれ以外の面を見るのをやめてしまう。
男だから、女だから、もう何歳なんだからこうあるべきと決めつけて他の視点を無視してしまう。

色んな一線を、私たちは知らないうちに引いているわけですけど、あれ?
〇〇だから、〇〇のくせにって、単なるカテゴライズだけじゃなくない??

線引きと自動思考

日常的に、意識的にも無意識にも区別したりカテゴライズしており、それは種類や属性による分類だけでなく、こういう時にはこうするといったように機能や行動を区別する、マイルールや誰かが決めたルールということもあるでしょう。
脳機能的にも区別やカテゴライズしておくと、いちいち考えて判断する必要がなく処理の負荷が軽いので、そうしたがるというのもあります。

最初は単なる目印として便利にカテゴライズして引いていた一線は、慣れて線があることすら意識に上らなくなっている、或いはいつの間にか価値観と癒着して越えるべきではない、越えてはいけない一線になっていて、それもまた意識に上らなくなっている。
なんてことが多いよね~。
胃薬と目薬を思いながら、つらつらとそんなことを考えました(笑)。

そして、意識に上らなくなると発動するのが、自動思考というものです。

習慣と思い込みと自動思考と思考停止

自動思考とは、私たちが何かを認識する時にそれまでの体験に基づいて、考えることなく反射的に浮かぶ考えやイメージのことです。
胃と目は全然違うんだから、そこに使う薬だって違うはずという私が持っていた思い込み。
〇〇専用はそれ以外の用途はないし、それ以外に使ってはいけないという思い込み。
赤信号を見たら止まろうとするように、こういう時はこうするものと習慣化している考え方や常識的な判断も、自動思考です。

そしてここが大事なポイントですが、自動思考は思い込みや価値観と結びついていることが多いのです。
これを書いている今も、noteにアップするならある程度は長くなきゃ!という思い込みが発動していました(笑)が、赤信号は止まれの印という記号でしかないのに、「すべきことをしないのは悪いことだ」という価値観を持っていると、それと結びついて「赤信号の時には止まらなければいけない=止まらないのは悪だ」というように自動思考が働くことがあるのです。

価値観と結びついた自動思考が厄介なのは、無意識のうちに自責思考を呼び起こしたりするからです。
理不尽に責められ怒りをぶつけられる体験をしてきた人は、不機嫌な表情を見るだけで、怒っている⇒自分が悪いから怒っているんだと思ってしまう、というようなことが起こるということです。その人は怒っているのではなくて眩しくて顔をしかめただけかもしれないのに。

また、〇〇専用と言われた途端にそれを使わなければいけないとか他の用途はないと、考えることなく思い込んで自動思考になるというのは、要するに思考停止に陥っているということです。
日常生活のそこら中に思考停止の罠が張り巡らされています。私たちって長年、ああしなさい、こうしなさい、そうするのがいいのよ、これが正解、それは間違いだと調教されて、残念ながら罠に嵌る下地ができてしまっているもんだから、その罠に嵌りやすい。

知識を得よう。そして疑おう

常識やルールやカテゴライズは思考や判断の負荷を下げてくれて、楽で便利です。慣れていることには労力を使わず、目の前の、より重要なことに注力できるのでとても効率的です。が、同時に思考停止と分断を生み出します。ただの線だったものがいつの間にか壁、或いは深い溝になっている。諸刃の剣です。

剣をうまく使うためには、そこここにある線を壁や深い溝にしてしまっていないか、常に気に留めることが大切です。私たちは自分に都合のいいように見聞きするようにできているので、よほど注意深く、また疑い深く世界を観察しないと気付けないものだろうと思います。
注意深くあるために、疑問を持てるために、常識の中に居つつもそれにとらわれずにいるために、私たちは知識を得て、広い視野と高い視座を持つことが重要だし必要です。胃薬を目薬に転用できると気付けるのも、知識と広い視野があり俯瞰して見られるからこそ。

だから、よく観察しよう。いつでも自分に問いかけよう。
そんなことを言うなんておかしいと反射的に即断するのではなく、なぜそう思うのか考えよう。
いろんな角度や立場から見た見え方を想像してみよう。

それってほんとう?
んん?なんかこの前と違ってない?
誰がそう言っているの?
それは誰が得するの?

そう考えられるだけで、世界は広がり、その分私たちは自由になれます。
一度壁や溝があると気付けると目の前が明るくなり、その学習によって次からは壁や溝に、より早く気付けるようになる。
意識は一人ひとり独立しているものと思われているけれど、集合的無意識というもので、実は深い部分でつながっているともいわれています。一人一人は小さくとも、集まればそれは大きな力になるはずです。そう信じて、まずは自分が壁や溝を飛び越えていきたいな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?