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邪悪ではない。

すき家で飯を食いながら、ここにいるやつら皆殺しにしてやりたい、みたいな殺意があることに気がついた。

12月の献身滞在で見た映画「小さな独裁者」のヘロルトとなんら変わるところがない。


今回これが上がってきてよかったのは、
今まではこういうのが自分のなかにあるとしたら
自分で「これは邪悪だ」と判断して、
ないことにするか、
みないようにするか、
自分の力でそうじゃないものに解釈し直すか、
みたいにして、
自分の判断(これは邪悪だ)に基づいて自分でこの問題を解決しようとしてたことにありありと気づけたこと。


のり子さんがよく言ってくれる「それは邪悪じゃない」。

それを当てはめてみようと思えた。

「邪悪だ」という自分の考えを手放して、
そして邪悪じゃないんだとしたら、
その殺意、攻撃性が自分のなかにあることを
手放しで無条件で肯定してみる。

「はい、あります」って。

判断なしに。


そしたら、
そのこと自体にすごく安堵が感じられた。


そうか、
こうやって自分で邪悪だとジャッジしてフタをするのをやめて初めて、
それをそのまま受け入れて初めて、

これについての聖霊の訂正、聖霊の考えに開くことができるのか。


「それはあなたのものではない」

「あなたはそれではない」

「それはあなたの個人的な何かではない」


だからこそ、こうして思い切って自分のなかにあることを認めることもできる。


そしてその攻撃性や殺意の下には、
ヘロルトが映画の最初で見せてくれてたような、
神に殺される恐怖、神から隠れなければならないという悲痛な叫び、苦しみがあることにも開いていける。

これらすべて、
この悲痛さも苦しみも、
それを覆い隠すための冷酷な攻撃性も殺意もすべて、
自分のなかを開いて受け入れていきたい。

そうすることで、
これらすべてについての神、聖霊の判断に心を開きたい。


「それは起こらなかった」。




神を思えば思うほど、
自分のなかにあると思って絶対に触れたくないと思ってきたものに
安心して触れられるようになるのかもしれない。














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