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わいの愛とたすけを求める懇請


私がみているすべて、

私が私だと思っているわい、

この世界にある、この世界のものだと見ているすべてが、

わたし自身の愛と助けを求める懇請がうつしだされたもの。


この話はなんども聞いてきたけど(それでイマイチ実感できなかったけど)、

合宿の映像をみたりしながら振り返っていると、

どういうわけかこのことが本当にそうだと初めて実感されてきた。



「ちゃんと通訳やれるおれでおらんといけん」
とかの思考も、ぜんぶここから。

愛と助けを必死でもとめとる。

その在り方そのものがすでに悲痛な泣き叫び。


世界に見とる、

「これこれこういう世界やから、わいは幸せじゃないんや(幸せにはなれんのんじゃ)」

とかの思考をともなった知覚も、

そういうふうに条件付けられた「わい」という自己像も、

すべて同じ泣き叫び。



わいの考え方によるわいの解決方法ではラチがあかん。

認知症の人が、認知症の限られた認知のなかで自分一人で自分を救おうとしとるようなもの。



本当に、
映画「DUNE」「メッセージ」にあったように、

わいのものではない、わいの世界の内側にはない、


「外世界からの声」(リサーン アルガイーブ!!!!)

「ノンリニアな思考をする存在」(すべて終わっているとわかっている存在)


のたすけを受け入れることが必要。

それを本気で求め、本気で受け入れるのにも気合がいる。

本気で本気で求めたい。


わいの在り方、わいという人間、わいが見ている世界、
そのすべてがわいの愛と助けを求める懇請。


ここを突破して、たすけをもとめ、うけいれたい🙏🔥🙏🔥🙏


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