決断

昨日の朝、起きたら出てきた思い。

「お前なんかが俺の人生に登場したからこんなことになっちまったじゃねえかーーーーー!!!!!!」
(私の人生へのラファエルの登場や、兄弟と関わること全般にたいしてこういう声が出てきた)

上がってきたものは上がってきたものでしょうがない。
許可するしかない。
出てくるのを許可するしかない。

この思いが上がってきてる、この知覚のなかでは、この知覚のレベルにおいては、どんな選択肢もない。


私にできるのは、このような知覚、このような思いが上がってくることになった決断を、私はどこか別の深いレベルでしてるんだ、ということに意識を向けること。

自分の何らかの決断、信念から一直線につらぬいて、このような思いがこの知覚のレベルにあらわれてるんだということを受け入れること。

中心の願望・決断からまるごと受け入れること。



それをしていくために、まずこの叫び
「お前なんかが俺の人生に登場したからこんなことになっちまったじゃねえかーーーーー!!!!!!」
の下にはどんな感情があるんだろう?と聞いてみる。


耳をかたむけていると、
何か、今の「自分」を保持しないといけないと、恐れているような感覚。

その「保持したい自分」というのはどんな感じなのか感じていくと、

ものすごい闇の感情が抱え持たれていて、
それを盾に、世界を攻撃する権利が自分にあると正当化している感じ。


「こんなに闇でいっぱいの感情に苛まれてるんだから、俺には世界を攻撃する権利がある!!!!」って言ってる感じ。

その権利を保持するためなら、闇の感情も保持するのもいとわない、みたいな感じ。

闇というのは、
絶望や醜悪性。

こういう闇の感情を隠して抱え持ちながら世界にたいして剣を振りかざしている自分、こういう状態を保持したいんだという願望・決断がある。

変化があるとしたら、この願望・決断にしかない。


この状態、この「自分」を保持するということは、
この闇いっぱいの心を保持し続けることなんだ、ということをはっきり見ること。

それをはっきり見ることで、自然と「じゃあ何を望むのか」ということについて、
決断しなおすことができるように。


こういう願望決断を持ったままだと、ラファエルみたいな祈り(あなたが私をAmazeしてください、とか)はできないというか、矛盾が生じるのがわかる。

形だけいのりを真似てもダメなんだ。

自分が今、どういう願望決断をもってこの知覚までつらぬかれているのか。
それをみとめないと。


そうすると、自分が本当に「不可能な状態」をつくりだしているような感じがしてきた。

神にあこがれてるのに、神の一部なのに、神に反対することにした、愛を否定することにした、という不可能な状態。

自分の願望と決断によって。


どうにもならない、にっちもさっちもいかない、この不可能な状態、苦しみにはまるしかない状態から自由になりたい。

今のこの不可能な状態をはっきりと見た上で、別の願望と決断が必要だ。



2016年のフランセスの映像を見た。(https://youtu.be/qsalSNOJv_g
そのなかでフランセスが言っていたこと。

はい、私たちは一緒に生活しています。
私たちが集まる目的は、私たちの人生のすべての時間、すべての瞬間を聖霊に捧げることができるようにすることです。

なぜなら『奇跡のコース』が実際に言っているのは「真実を幻想に持ち込むのではなく、幻想を真実に持っていく」ということであり、
私たちの心の中にある、まだ幻想を信じている部分すべてを聖霊の導きに委ねることで、本当に奇跡的なことが起こるのです。そしてそれによって、聖霊が私を癒しの道に導いてくれるのです。

「幻想に真実をもちこむのではなく、幻想を真実のもとにもっていく。すべて。あらゆる瞬間。」
ということがこれまでになく入ってきた。

そのようにしていきたい。


ラファエルも自分も人間なのだという信念、
「私(私たち)は何者なのか」についての、あるレベルでの決断がある。

その決断に疑問をていし、そうではないことに心をひらきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?