情熱の果て

記録していた事を形に残したいと思います。 挑戦することは人生で大切なことやと思う。もち…

情熱の果て

記録していた事を形に残したいと思います。 挑戦することは人生で大切なことやと思う。もちろん失敗もする。でもまた挑戦しよう。その繰り返し。続ければ、成長し続ける。

最近の記事

アメリカンフットボール学生寮

前年度の屈辱を背負い、猪田新体制でコーチ陣も更に毎日学生達と向き合った。 志山大学アメリカンフットボール部は専用の学生寮がある。他大学のアメフト部はこんな恵まれた環境は殆どない。 学生達と向き合うのはグラウンドだけではない。コーチは技術やメンタルだけを教える訳ではない。そんのんアメフト経験者であれば勉強したらアメフト教えれるもん。みんなコーチなれる。 彼らが社会に出て壁を乗り越えたり、リーダーシップをとったり、社会で志山大学アメリカンフットボール部で培った経験をフルで活

    • 2017年 始動そして大量退部

      1月7日、静かな雰囲気の中で年初めの練習が始まった。 猪田監督は全員を集めた。 (勝つ気がない奴は辞めてもいい。練習について来れない奴も。今のままじゃ今年は入れ替え戦だぞ) 鬼の練習が始まった。 10ヤード、20ヤード、30ヤード、40ヤード、そして100ヤード。 一日最低計2500ヤードのダッシュから始まり、ディフェンスはタックル練習、オフェンスは徹底的なパス連絡に加え、コーチ陣達もより一層厳しくなり、出来るまでやる。スタイルで過酷な練習が続いた。 3月までに約30名の

      • 情熱

        2016年シーズンが終わった。 浜寺監督率いるREDSは4位で終了した事により、2017年はより一層厳しい道になる事になった。 そこで、浜寺監督以下コーチ陣がシーズン終了後に集合して、2017年に結果を残す為にミーティングが行われた 主力コーチ約10名が集合し、各々で反省やこれからの事を語った。 僕は練習時間の短さ、やらせないとやらない学生達、指導者が引っ張らないといけない事を主に話をした。ただ、僕が話をした事は後の祭りの話やと思った。シーズン中に僕も本気で修正しようとし

        • 経験、失敗、自信

          豊橋高校アメフト部の話はいったん終わり。 REDSの話に戻ります。 2016年のREDSは4位という屈辱的な結果で終わった。1位以下は最下位でも負けは負けや。それでも、勝つというプライドを叩きのめされたシーズンやった。2016年チームでの1年生は豊橋高校アメリカンフットボール部から入部した5名がいた。 その中でもDLの清松は1年からシーズン通して全てレギュラーにしていた。 経験して欲しかった。 コテンパにやられても彼は1年生ながら思い切り立ち向かっていた。 大学1年生は高

        アメリカンフットボール学生寮

          豊橋高校アメリカンフットボール部(REDSへの架け橋)

          新チームがスタート。 3年生に清松という選手がいた。 清松は僕が監督になるまではWRをやっていた。 身長184センチで確か体重は80キロ代だった。 細かったが、恵まれた体格だった。 スピードもあったのでTE/DEにコンバートさせた。 高校生チームで体格の良い選手や運動神経が良い選手は大概オフェンスとディフェンスを兼任する。 だから僕は殆どの選手を兼任させた。 清松を含めた3年生と2年生は僕が豊橋高校の監督になって2年目。昨年まで3年生が1人だったチームの土台を支えてきた学

          豊橋高校アメリカンフットボール部(REDSへの架け橋)

          豊橋高校アメリカンフットボール部(監督2年目)

          約20名いた2年生が3年生になり、同じく20名いた1年生が2年生になり、新入生も20名弱入部し、約60名体制となった。 監督2年目の僕はチームの成績を一つでも良くすることと、大学1部リーグで通用する人材を育ててREDSへ入部させる事(附属高校なので志山大学にはそのまま上がれる)を考えていた。 もちろん彼らに最高の高校生活を送ってもらい、最高の仲間を作ってもらうことは当たり前の前提の話やで!2年目からはオフェンスコーチに後輩の森谷を誘った。 彼はオフェンスを見てくれたので

          豊橋高校アメリカンフットボール部(監督2年目)

          豊橋高校アメリカンフットボール部(打ち上げ花火)

          合宿の最終日の前日夜に花火を大量に買って山中湖のほとりで花火をした。 高校生の花火の遊び方はめちゃくちゃや。 せっかくみんなで来た合宿やし、遊びも少しは入れてあげたかった。 キャプテンの大守は打ち上げ花火を手に持って打ち上げた。 (お前らは家族だ!)その後みんなで山中湖に飛び込む事になった。 ほんま青春やなぁ。 と思いながら少し距離を置いて彼らを見ていた。 ほんなら、つとむさんも一緒に飛び込みましょう!って誰かが言うた。 夏でも夜の湖は冷たい。 みんなパンツになった。 俺も

          豊橋高校アメリカンフットボール部(打ち上げ花火)

          豊橋高校アメリカンフットボール(合宿 練習試合)

          合宿中に練習試合を一つ組んだ。 静岡の強豪チーム見島高校。 この高校はとにかく気持ちが強い。 勝つ為に低いブロック、鋭いタックル。徹底して泥臭いプレーを続けてくる。確実に刺激になると思った。 僕は彼らに体感して欲しかった。 気持ちで勝つとはどういうことか。 そしてどう感じるか。練習試合当日は大雨が降った。 土のグラウンドは水たまりと言うよりかはほぼ湖状態だったが、折角なので試合は決行した。 見島高校の気合は想像以上だった。感じた事のない激しいブロックやタックル

          豊橋高校アメリカンフットボール(合宿 練習試合)

          豊橋高校アメリカンフットボール部(夏合宿)

          元々は合宿で遠征などやってなかった(連れて行く人がいなかった)けど、その年から父兄の皆さんに合宿費負担のお願いをして夏合宿に連れて行こうと思った。 1週間一緒に朝から晩まで練習して共同生活をして、チームワークを高めようと思っていた。 僕1人だったから、父兄の皆さんの力は必要だった。どうしてもチームワーク強化の為に僕は合宿に連れて行きたかった。 場所は山中湖に決めた。 夏は涼しい。 その年の8月に実現できた。 父兄の皆さんも準備等めっちゃサポートしてくれた。僕はみん

          豊橋高校アメリカンフットボール部(夏合宿)

          豊橋高校アメリカンフットボール部(監督就任)

          僕は1からチームを建てようとしていた。だから平日や休日も練習に来ない当時の監督に(僕が全部やります)と言って監督を降りてもらった。チームを引っ張らない監督は監督ではない。チームのリーダーはちゃんと現場に出て選手とと向き合える人じゃないとあかんと思う。僕が豊橋高校の監督に就任した時、3年生は1人だけだった。 3年生の大守は自動的にキャプテン。 その下の2年生が約20人、その下の1年生が約20人で40人ほどのチームだった。 附属高校唯一の男子校。数は力になる。 男子校は一つの強み

          豊橋高校アメリカンフットボール部(監督就任)

          豊橋高校アメリカンフットボール部

          初めて会った彼らの目は輝いてた。REDSからコーチが来た!みんなそう思った。豊橋高校の練習場は志山大学のフットボールグラウンドを使用していた。 要するにREDSが練習している場所と同じ。REDSが練習していない時間にグラウンドを使用していたり、REDSが使わないスペースを使ったりしていた。 だから高校生達は日本一を目指すチームを1番間近で憧れの眼差しでみていた。練習グラウンドと一緒やったから僕は大学も附属高校も両方教えることができた。 大学の講堂を使って挨拶をした僕は彼

          豊橋高校アメリカンフットボール部

          附属高校の強化

          2014年の3月、猪田監督に呼び出された。 4月から志山大学の附属高校の豊橋高校アメリカンフットボール部のコーチに任命された。 豊橋高校は猪田さんの出身高校でもあり、もともとアメリカンフットボールは無かったけど、2008年に猪田さんが同好会として立ち上げた。 猪田さんはそこで選手を育てて大学ではredsに入部させる事で附属高校からのリクルート強化を図ろうとした。 その時から豊橋高校の監督を任されている秋永さんは社会人アメフトチームと二足の草鞋を履きながら1人でやっていた。

          附属高校の強化

          屈辱

          そして2週間が経ち、京法大学との試合。 京法大学はRBの李選手を筆頭に最高のメンバーが揃っていた。 この李選手はトップスピードに乗ればなかなか止められない馬力そして巧みなステップワークを持つ。 とにかく他の選手のサイズ感も頭ひとつ抜けていた。 ただ、これまでの志山大学はここ何十年も京法大学にどんな選手がいようと負けた事は無かった。 練習量もちゃうし、目指してるところに対して取り組み方もちゃう自信はあった。せやからなんとかなるという過信もあった。 志山大学はエースQB高嶺が前

          過信

          そして日曜日を迎えた。関東での長年ライバル宝専大学との一戦を迎えた。 前半はシーソーゲームとなったけど、外国人選手ブラッドのビッグプレーもあり、24-10でリード。 ただ、QBでバイスキャプテンの高嶺が負傷退場した。交代QBは1年生QBやった。 そして何故かハーフタイムの時にこの点差でこの試合は勝てると思ってしまっている雰囲気になっていた。ほんまやったらこういう時はハーフタイムでもっかい引き締めなあかんかった。 緩い雰囲気やった。 ディフェンスは必ずシャットダウンするこ

          敗北

          9月からシーズンが始まった。最初の2試合は順調に勝っていたが、3試合目の明誠大学との試合で歯車が狂ってきた。 試合は勝ったものの、前半からミスの連発であわや負けかけた。 そして4試合目の中栄大学との試合。 志山大学は12年ぶりに中栄大学に敗れた。まさかがリーグ戦中盤で敗れるなんて誰もが思っていなかった。強くて憎まれる存在だったチームに勝利した中栄大学のベンチサイドや観客はまるで優勝したかのような喜び方やった。 21-27。試合終了。チームの雰囲気は悪かった。 翌日月曜

          学生の為になったのか

          浜寺監督は練習中は特に口出しせず、グラウンドの隅に立っているだけだった。 幹部達は何度も個人的に浜寺監督の部屋に呼び出しがかかっていたのは知っていた。 選手たちへ自主性を促したが、これまで引っ張られてきた学生達は自分達で勝てるように日本一のチームの雰囲気を作ることは難しかったと思う 浜寺さんは優しかった。 何故か僕は気持ちが楽になっていた。 学生に対して厳しくすることは僕もしんどい。 おそらく色んなことを学生の自主性に任せて妥協していた。楽を選んだんやと思う。 この

          学生の為になったのか