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金と土
よく聞くフェイスブックの「揺れて歩く」ラジオの中でお題を頂いた。
『役に立つのは「金(かね)」か「土(つち)」か』
なんとなくだが「金」と「土」では、そもそもの時間軸が違う気がすると思ったので、つらつらと書いてみようと思い立った
〇「土」は静
私の地域は本当に緑豊か
幼いころを過ごした岸良は蒼い山と碧い海がすぐそばにあり「土」は日常にあった
「土を耕す」というと北海道のような広い畑を一般の人はイメージするが、私は石積みの段々畑を耕すイメージだ。
その石づみのところに座り、土と仕事をするじいちゃんやばあちゃんを眺めていた。
あるときは田んぼになり、ある時はそば畑になり、ある時はレンゲ畑になる
四季折々少しずつ表情を変えるが、手をかけて時間をかけて、でも天候という運も合わさり、生み出されていくものがあった
もちろん天候という運で手をかけていても生み出されないものもある。その覚悟と共に「土」はある
その生み出されたものは物ではあるが「命としての価値」を持つ人の食料となる
手をかける時間は長いが価値のある「食料」である時間は短い。食べたら人の血となるし、食べられなければ腐り土に返っていく
だからこそ、淡々と手をかけ時間をかけ、天気と相談し、運を天に任せて静かなサイクルが回っているのだ。
そして、そのサイクルを回す人がいなくなり、手を掛けなくなった「土」は静かな自然の生存競争の場となり、草むらから雑木林になり、かつてそこが人の「食料」を産み出していた場所ではなくなっていく。
畑や田んぼであった記憶さえもなくなっていく日が来ると、そこに住む動物たちの住まいや食料として自然の一端を担っていく
土は静かな時を淡々と刻む
〇「金」は動
人は頭を使い手を動かし、「物」を作った。
そして思考することで空想し「物語」を産んだ。
その「物」や「物語」を自分のものだけにしないために「金」を作り流通を産んだ。
「金」は流れ、動くものだから時間軸が短い
もちろん「金」をためることもありけれど、基本的には「物」や「物語」を買い、売るという流通のために貯めていく
流れなくなった「金」の価値はない。
人が作り出していく「物」や「物語」は「仕事」になり、仕事の価値(対価)が「金」になる。
「金」がなければ「物」も「物語」も手に入らず、「土」に手をかけて作り出した「食料」も流れていくことはない。
ただ「金」は「土」と違って「運」よりも、「欲」に左右される。人の心はながれやすいから。流れるものに左右されるのが「金」。
動くことを義務付けられているのが「金」なんだろう
〇私にとっての「金」と「土」
私の仕事は「人」を対象としていく仕事で、多分「物語」を支える仕事なんだと思う
その中で生きるための「食料」も、仕事の中で使う道具も「金」なしでは手に入らない
「金」はとても大事だ
「物語」を支えるにもとても大事だ
生きていくこと、つまり「暮らし」の流れが止まることはないから
では「土」はいらないのか・・・
決してそうではない。
ただ「土」には負い目がある
私が幼いころ見ていた「土」たちは、今「自然」になり人の命をつなぐ「土」ではなくなったからだ。
今、住んでいる家には庭もない
日頃、「土」に触れることはあまりないのだ
けれど、命を支える「土」が作り出す風景や、「土」とともに生きる人々は私に癒しや学びをくれる
「物語」にとってもなくてはならないものなのだ
流れの中で生きるものの「拠り所」になるのが、長い時間を静かにささえる「土」なんだろうと思う
〇どちらが役に立つのか
そもそも、私にはこの二つを比べることができなかった
日頃の暮らしの中で欠かせない「金」と日頃の心を支える「土」
でも、たぶんじいちゃんやばあちゃんのような時間の過ごし方を、私は一生しないのかもしれないと思う。
それは「土」に対する裏切りなのかと自問自答するのかもしれないとも思う
ただ、命を終え骨となった時、骨壺に収めてしまわれるだけではなく一部でいいから「土」埋めてほしいとは切に思う
負い目を持ちながら生きた分甘えかもしれないけれど「土」に帰り、「拠り所」に包まれたい。
それは役に立つという次元のものではなく、故郷のような「大切にしたい」ものなんだと思う
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