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落人の郷の母のみおくり

1)プロローグ

私が新人の頃からさまざまなことを教わった郷

平家の落人伝説のある集落で平成3年に初めて訪れた時は30数世帯70人以上が暮らしてすいた
まだまだ活気があり県道から集落に入る道はここから集落が広がるのだとわかるぐらい綺麗に草がかられ、土の道路も行き来しやすいように整備され、入ったとたんに棚田が広がる日本の原風景とのいえる場所だった

12年前私はこの集落が学校を閉校する決断に立ち会った。平成2年度から20年ほど休校状態だった。閉校するとおそらく開校することはない。もし子育て世代が移り住み子育てしようとしても最寄の小中学校は車で50分以上かかる。

通うことは実質難しい。だからこそ行政も休校状態を続けてきた経緯があった。

しかし集落の皆さんは話し合いを重ね「もう子供たちは戻ることはないから集落の方々が避難する場や集落外の方が尋ねてくる時の交流の場にしてほしい」と自ら行政に申し入れをされた。

トイレを含め小さな改装がされた。

子育て世代が帰ってこない集落は老いが徐々に進む街までが遠い集落は介護サービスも医療サービスも届きにくい。亡くなる前に多くの方は子供さんのところにいかれたり施設を選択された。

この集落で看取りや葬儀をしたことは私が入職して以来1回もないのだ。施設入所を自ら選択される長老たちとも話をしながら、自己決定というのはこういうことだとその度に泣きながら教わった。

そうやって入職から30年以上を経て、今は数世帯の集落になっている。


このゲートを通って集落に出入りする

この集落の最長老96歳のお母さんの口の中にガンが見つかったのは令和3年12月。その結果を聞きに行った際に重度の心不全も見つかった。緊急入院となった。

1年ほど前から足が弱り身の回りのことが少しずつ難しくなり、県外にいる子供さんたちはコロナ禍の中でも1ヶ月ごとに交代で介護帰省されていた。

以前お母さんと介護が必要になった時にどうしたいか話をしたら、最期まで家にいたいと言われたそうだ。だから兄妹で話し合いできるだけそうしてあげたいとおっしゃっていた。段々と弱ってくるだろうと思っていたが、突然このような状況になるとは…

緩やかな看取りのイメージを勝手に持っていたとおっしゃった
晴天の霹靂だとも

癌についてはもう高齢でもあり手術はせず対処療法でお付き合いしていく決断をされた

本人には詳しい告知はしない。手術はしたくないといっているので、つきあって行こうと伝えている。心不全のコントロールができたら家に連れて帰りたい。

口の中の癌から出血しても圧迫止血しかないのなら家にいても同じこと。最後のお正月になるかもしれないからなおのこと連れて帰りたい。

ご家族の意思は固かった。

ご本人はそもそも帰るつもりしかなかった。口の中の「もの」はちょっとやっかいだけど手術はこの歳だからしようと思わない、心臓の調子が良くなったら、難しいことはよくわからないけれど、子供たちが帰ってきてくれているから、任せて早くうちに帰りたいとのことだった。

しかし帰るところは落人の郷。訪問看護も毎日は到底無理で週1回きてくれるかどうかもわからない。往診をしてくれるドクターは現状皆無だった。

救急車も90分。ドクターヘリは気象条件次第。
そこに帰るのだから最悪警察が入っての「検死」も覚悟しなくてはならない。ご家族と話し合った。ご家族はそれでもいいと連れて帰る決断をされた。タイミングよく看護師のお孫さんがお仕事を休憩し次のキャリアを考えている時期とも重なり応援に駆けつけられていた。

年末には帰るけれど、それまでにお孫さんが病状と徐々に進む病状やその過程で考えられる対応を想定しながらご家族の内の気持ちの整理と準備をフォローしてくださった。
ケアマネと相談し福祉用具のレンタルでベットは元々入っていたが、マットレスをエアマットにかえ車椅子を増やし土間から居間にあげるスロープを借りた。
なんとか週1回訪問看護が調整をしてくれた。

年末年始はそれでなくとも家に連れて帰りたいという家族が増え、訪問看護ステーションへの相談件数も増える。しかも町内には1件しかなく、うちが行かなきゃ行ってくれるところが他にないと管理者はいつも頭を悩ましながら調整をしているのだ。

医師が在宅医でないことも気にしていた。ただお願いしようとしていた在宅医の先生がかなりオーバーワークになっていることもご存じだった。

訪問看護ステーションも難しい状況だが、やれるだけやりますねと引き受けてくださった。医療用麻薬が必要となったところは、隣市の調剤薬局の薬剤師が月1回訪問し指導してくださることになった。

そしてドクター。町立病院の僻地診療所担当の先生に相談してみた。

『先生、この集落で死亡された方の検死が必要な場合は先生が行かれるのですか?』とまずは切り出した。
「そうですねー。おそらく僕がいくことになるでしょう」と言われた。

医大を卒業し離島での従事を経て1年の予定で赴任された若き先生は地域のおばあちゃんたちからもイケメンの優しい先生と評判だった。ワクチン接種や健診等にも従事して頂いている。

以前からこのおかあさんの主治医でもあった。お母さんも先生のことがお気に入りだった。ただ今回の入院は口腔外科の結果を聞きに行ってそのまま入院となった急なものだったため、入院先からの情報提供依頼も来ていなかった。

そこで経過の報告を兼ねてご家族の在宅ケアへの思いをお伝えした。

「先生、家族は例え検死になってもお家でという意思に変わりはありません。できれば先生に検死に向かうのではなく在宅の主治医、そして最後の死亡診断をお願いしたいです。」というと、「僕の勤務体制の状況で行けない日があるため難しい曜日はありますが、できる限り考えてみます」ととりあえず前向きに考えてくださることになった。

以前一緒に在宅ケアをしていた外来主任さんが「以前も訪問していたことがありますよ」と後押ししてくれた。ただ医師不足で動いている町立病院。動けない場合の想定も必要になるため年明け訪問してみましょうということになった。

それまでは隣市の総合病院の循環器の先生と口腔外科の先生が主治医。
救急車で2時間かけて運ぶか、いざという時は死亡発見の取り扱い「検死」になるかもしれない。また再度意思確認をした。

それでもご家族は家でできるだけ笑って過ごしたい覚悟を決めたと話された
「この子たちが故郷に帰ってこれるように。故郷がなくならないためにも長生きする」と言い続けていたお母さんの思いは子供さんたちに伝わっていた。

「故郷である母を故郷でみおくりたい。」
子どもたちも65から75歳。
年金暮らしだけど、時間の余裕は出てきている。
人生経験も積んだ。

だから1-2年の介護ならみんなでできると以前も話された。
これから歩けなくなった母のおむつや着替えなど本格的な介護になるから二人体制にする。一人じゃないから頑張れると言われた。

ご家族の覚悟が決まったところで、家族の同意を得て消防分署に走った。
分署からも90分かかる地域。地図と情報をお渡しした。単純に息が止まるというわけでなく、治療をすることで改善する症状や怪我であれば救急で一旦病院に入院することもありえる。

何があるかわからないから、協力を得たい。状況を知っておいてもらうのにこしたことはない。
話してみると、どうやらこの地域はちょうど管轄がまたがるところで隣町の消防が走ることもあるらしい。情報を共有しておきますと言われた。

また自分たちは明らかになくなっている時は警察へ引き継ぎすぐ帰ります。

特にこの集落に救急車が1台向かうとすぐには帰ってこれない。他の対応が出た時のことも考えなくてはならないのです。

しかも呼ばれたら蘇生しなければならない。ご家族が望まなくてもそれが救急なんです。その上で主治医に連絡を取ります。指示が出されればその通りにします。そこはご理解いただけませんか?と言われた。

なるほどおっしゃる通り家族に伝えますと答えた。

この集落には以前もここに勤務した時に救急で走ったことがあるからと、いろんなことを考えながら話してくれた。ありがたかった。

家族に伝えた。消防に電話する際にどのように対応するか具体的に打ち合わせた。緊急時を踏まえた上でも在宅ケアの意思は意志は変わらなかった。総合病院の相談員に間に入ってもらいながら、年末年始の主治医との申し合わせもした。

ケアマネは福祉用具の事業所と調整しベットやマットレスの仕様を即座に変えてくれた。
デイサービス事業所もいつでも受け入れられるように声をかけにきてくれた。
訪問看護師さんは年末ギリギリ30日に訪問してくれた。
そこから1月4日までは家族のみの対応になる。
1月4日には状況を見て、デイサービスや訪問看護・福祉用具の方々と申し合わせをしようということになった。
なんとか無事にお正月を乗り切ってほしい。
みんなの願いだった。
できることできないことが、それぞれの機関にはある。
その現実を知りながら一つ一つのことをどうするか考えみんなで覚悟を決めていく。
資源がないから諦めるではなく、それでもここにいたい思いと不安を乗り越えていく覚悟を決めていくそんな過程を共に歩んでいるのだとこの時思った。

2)負けるもんかという本能


大隅海峡を閉校した小中学校の校庭から望む

正月の間、緊急連絡は入らなかった。そして1月4日各機関集まってびっくりした。笑顔のお母さんが車椅子に座っていたのだ。

年末帰った時は実は寝返りも自分でできずほぼ眠っていた。おむつ交換を定期的に家族がしなくてはならなかった。

ところがである。本人は家に帰ると楽しみのデイサービスに行きたいという気持ちがむくむくと湧いてきたようなのである。食べたいものを食べているうちになんとか起き上がりができるようにまで回復した。すると「今日はデイサービスの日じゃないのか?」と聞かれるようになったらしい。「お正月明けに能勢さんやケアマネージャーさん、訪問看護師さん、デイサービスの方たちと話し合いにきてデイサービスに行くの準備をするんだよ。」というと、本人の中でいくための努力が始まられたようなのである。昼間はポータブルトイレで排泄するようになられた。時々せん妄のように大きな寝言に起こされてご家族は悩まされていたが、それでも日中車椅子で過ごせるようになられていたのだ。

なんという回復力!

本人の思いを尊重し1月12日循環器と口腔外科で受診後デイサービスを再開することで申し合わせた。
ケアマネージャーは介護福祉士が基本職のため医療的な判断のフォローとして包括の私が一緒に会を進行させてもらった。ことは単純ではないからだ。

何せ片道50分野山道。途中携帯電話の電波も入らないところもある。送迎をするドライバーは医療職ではない。一緒にデイサービスに通う隣の義妹も乗っている。もしも心不全等の兆候で意識がなくなった時どうするか。2人の対応を考えなくてはならない。義妹は中等度の認知症、思わぬことが起きるとパニックになる。申し合わせをしていても忘れてしまう。
だから峠より手前の場合は引き返しながら携帯が通じる場所で家族に連絡してランデブー。それ以降はデイサービス方へ走りながら、携帯電話の電波が入るところでデイサービスや家族に電話で救急対応の判断を行いランデブーをする。
訪問看護師は週1回。今のところ終末期のケースが多いため定期ではこれが限界とのこと。職員が育児休暇等から復帰してくれば定期も増やしていける。緊急時はこの限りではなく対応する。
車椅子も2台借りた。車道から急坂を登り家の入口に至る。ここは3人がかりで車椅子を上げている。とても危険な状況。アシスト付き車椅子を外用に借りた。家の中は普通の車椅子。
古い日本家屋のおうちは土間から上がり框まで80cmはあるため車椅子用のスロープも借りた。代わりに12月までの役割を終えた置き型の手すり付きの踏み台が外された。

「ありがとう^^ありがとう^^」着々とデイサービスにいく準備がされている様子を嬉しそうに眺めているお母さんの笑顔がみんなの力になった。

担当者会にみんな集まりました

お母さんに「デイサービスは何がそんなに楽しいの?」と尋ねてみた。すると、「ご飯も美味しい。お風呂にも入れてもらえる。でも一番はみんなでいろんなことをする。そうするとこの人がやれるんだから私もやれるはずと自分の中の負けず嫌いが出てくる。そうすると元気になるのよー」と言われた。

生きる力の出し方を本能で知っているんだ!と思った。

「やっぱりデイサービスに行かなきゃ始まらないですね」と声をかけると「じゃんのよー」と笑顔で答えるお母さんが眩しかった。


3)主治医を変える

ただそうは言ってもお母さんが歯肉癌で心不全であることには変わりなかった。

歯肉癌はいつかは大きくなり出血しやすかったり、顔貌が変わったりするし痛みも尋常ではなくなると思われる。

心不全も呼吸がしんどくなったり意識がなくなることだってあり得る。

積極的治療はしないとはいっても苦痛はとってあげたい。

じゃあそれをどうやってる?誰が指示する?

看取りの時の死亡診断を書くまで寄り添ってくれる先生に変更する必要があった。

けれどまだ僻地診療所の先生はこうなってからの本人を見ていないし診療情報提供書も渡されていない。

そこで病院受診に同行し先生と家族の協議に同席し、この地域の環境を一緒に伝え考えていただくアプローチをすることにした。

受診当日他のケース調整があり私がついたときは循環器は終了していた。

心不全について思うほどの改善が見られていなかったため薬の調整をされていた。家族ももう少し専門医に見てほしい思いもあり2週後の受診を決めていた。

口腔外科の先生は積極的治療をしないのであれば、医療用麻薬の管理を診療所の先生ができるのであれば紹介状を書くと言われた。専門医でなければ判断に迷うことがあればコンサルはいつでもうけると話されたが2週後循環器で来院するのであれば、医療用麻薬の調整も含めて2週後まで待ちましょうということになった。

しかし翌週僻地診療所の先生は初めての訪問を決めていた。
診療情報提供書のない中での訪問になることを急ぎ病院に行きMSWに相談した。「お住まいの集落にまだ行ったことがないからまずは予定通り訪問してみようということになりました。」と連絡を受けてホッとした。なんと有難いことだろう。本気で考えてもらえていると実感した。前に進めると確信した出来事だった。

ドクターの訪問当日、30分前にお母さんのお家に着いた。以前TV電話のあった台の上に医療用麻薬の管理のボックスが置いてあった。複雑な気分になった。

かつてこの地域には9年間テレビ電話を国のモデル事業を利用し導入した。おはようタッチというシステムで毎朝テレビ電話に挨拶してくれていたのがお母さんだった。タッチするとメールが家族や包括支援センターに飛んでくる仕掛けだった。もちろん電話もできるのだが能動的な見守りの仕掛けとして加えていた機能だった。お母さんはそのタッチの先に娘さんや私がいると思って一人暮らしのときは大きな声で挨拶しながらタッチしてくれたのだ。この地にTV電話システムの視察に訪れる方に毎回その話をしてくれた。けれどITの限界がきた。部品の関係で継続できなくなり昨年の3月で撤去して今TV電話はそこになかった。

今テーブルの上に乗っているのは緩和のためのお薬。1年前は想像すらしていなかったなとしみじみ思った。

お母さんは車椅子に移り先生を待っていた。

「先生がもうすぐ来てくれるよ」と声をかけると「こんな遠くまでありがたいなあ。」と微笑んだ。

車の音がして先生が看護師さんとやってきた。
「調子どうですか?」
「こんな遠いとこまでありがとうございます。みなさんのおかげでおばちゃんは足はダメだけど手も痺れるからこうやって叩いて感覚を戻しているけど元気ですよ」と指先の感覚を起こすかのように交互に手のひらに叩きつけながらニコニコと微笑んだ
「向こうの先生から連絡が来たら僕がまた見るからね」と先生が言うと「お願いします」とまた微笑んだ。

家族にも先生は「最後は僕ができるだけ来ますね。ただどうしても動けないときは救急をお願いする可能性もありますが多分大丈夫だと思います。何かあったら連絡をください」と話された。看護師のお孫さんが疑問点を先生に尋ねると丁寧に答えられた。
家族はこのとき相談できる先生だと確信を得られたようだ。
先生が帰られたあと次回の受診で先生に主治医を移してもらいたいと望まれた。
帰り町立病院により先生にお礼を伝えた。
そして次回受診で主治医を先生に移せるよう家族と一緒に話をしてきますと伝えた。
実際1月末の受診で口腔外科は診療情報提供書を出してくださり緩和ケアは診療所の先生へ移った。循環器はあと1ヶ月見せてほしいと言うことで2月まで持ち越すことになったが薬剤の変更はなく次の受診の後、全ての管理は診療所の先生に移行された。

みなさんのおかげさまとお母さん


4)ICTを利用したカンファレンス

緩和ケアが診療所の先生のコントロールになった翌週。初めてのカンファレンスを行った。僻地診療所の小さな診察室に直前に交代された現在の介護者の次男さんと三女さん、ケアマネさん、月1回訪問しながら薬剤を管理してくださる薬剤師さん、ドクター、オンラインで訪問看護師さんと一旦自宅に戻られた次女さんとお孫さん、本人はデイサービスに行かれており、デイサービスの管理者はその日人材が確保できずやむを得ず事後報告することになった。

診療所の診察室でカンファレンス

現在の病状としては痛みのコントロールは内服でできているが、医療用麻薬の副作用で大きな声で話すことがあることなどが共有された。介護方法がまだ慣れないため引き上げるときに圧迫されて内出血等も見られたが訪問看護師さんの丁寧な指導で少しずつ家族にも自信が生まれてきていた。本人はデイサービスが何より楽しみな様子であるとのこと。食べ物も今のところは柔らかいもので食べれていることもあわせて報告された。心不全についてはやや改善というところである。

がんの認定ナースであるお孫さんからは夜のうわ言のような大声を出される様子は、心臓や腎臓への負荷が要因ではないかといった話もあり、訪問看護師さんからも同様の意見が出され医療用麻薬の変更の相談もされた。先生も状況を整理しながら変更を決め薬剤師さんも調整し訪問指導をしてくださることになった。

またデイサービスもこのカンファレンスの前に事前に週3回の利用への変更も調整されていた。家族の疲労緩和と本人の希望、そして増やす金曜日の利用は何かあった際に僻地診療所が診察できる曜日でもあった。週単位で状況が変わった際の調整もしやすいような工夫をしましょうということになったのだ。デイサービスは途中受診すれば減算となる。それでもここにくることが生きがいという思いに答えてくださった

そのこともこのカンファレンスで共有しサポート側もそれぞれの事情を踏まえて頑張ろうという士気に繋がった気がする。
集まることは難しくてもICTの利用で情報共有すること、思いの共有をできる手応えを感じた時間だった。

この体験を踏まえ今度自宅からも病院に繋いでみましょうという提案も先生にしてみた。以前導入していたテレビ電話では画像があまり良くなかった。しかし今回はZOOMやGoogleMeetの利用のためだいぶ変わってくると思われる。コロナ禍でオンライン診療も可能となった。

丁度、庁舎内のDXの取り組みでChromeBookの実証中だったこともあり、訪問時町立病院とつないでみましょうということになった。
思ったよりも使いやすかった。TV電話を利用していたご本人も思いのほか面白がって下さった。何かあったらこの方法もあると手応えを得た。

Google meetでお話し

結果、状態の変化があった際もハイブリットでのカンファレンスや、PCAポンプの導入に向けた自宅からの医師相談と状況確認に利用することになった。

ICTは人がつながると重要なインフラになると思った

5)痛みが強くなり

歯肉癌が徐々に進行し、一気に体重が5kg近く減った。口腔内出血も頻回になり顔貌も変わってきた。食事を食べられなくなり、痛みを緩和するのに定期の医療用麻薬だけでなくレスキューも利用するようになってきた。

何より口に物を入れるのが辛くなってこられたようだった

けれどデイサービスでは何かしら口にされた。家にいるとほとんど食べない、飲まない日が出てきたため金曜日のデイサービスの際は点滴をするようになった。

でも片道50分のデイサービスの送迎車に乗って行く姿とみんなとできるだけ同じように過ごそうとされるご本人の様子に「生きがい」の効力の強さを感じた。

ただ限界が出てきた。医療用麻薬の内服が厳しくなってきたのである。

訪問看護師さんからも「もう注射だよね」と相談があった。ただそうなると訪問回数を増やさなくてはならない。体制として可能なのかと管理者に伝えた。「所内で話してみる」と言われた。

もう日に日にという単位で状態が変わって行くように見えた。


結果「ご本人に合わせた看護をしましょう!」と訪問看護ステーション内の話し合いで結論が出た。翌日オンラインで自宅からドクターに繋いだ後、町立病院で相談しましょうと約束した。

訪問すると看護師のお孫さんも家族も「痛みをとってほしい」とPCAを望んでいた。本人はデイサービスに行く為に必要な治療と理解された。ただ持続点滴になるとデイサービスの利用の問題も出てきた。

持続点滴のルートの不具合が送迎時でることもある。運転手さんでは対応ができないことを考えると家族送迎にしたほうがいいと思われた。デイサービスに行かせてやりたいからがんばりますと家族は言われた。

PCAの管理についてデイサービスでもやってもらわなくてはならない。デイサービスにも連絡をとった。「教えて貰えばやります」と同意を得た。

その上でオンラインで本人の様子をドクターに繋ぎ、状況をお伝えし家族とも画面越しにPCAについて面談しながら相談した。その後病院で訪問看護師と合流しドクターと相談した。やはりPCAが良いだろうということになった。機材の問題、薬剤レシピの問題があがった。そこで診察室からガン拠点病院の緩和ケアナースに相談した。

「バックアップできると思うよ!緩和ケアドクターにすぐに連絡を取るから」と調整をしてくれた。ドクター同士で話をしてもらうこと、診療報酬の請求等の方法も指導してくれた。

翌日に受診しPCAが始まった。お母さんに笑顔が戻った。

PCA開始され桜を見て微笑むお母さん

笑顔の写真をL I N Eしてくださったお孫さんとゴールデンウィークに子供さんたちが揃われるときまでこの笑顔でいてもらえますように祈った

6)看取りの時

痛みは緩和されたが残された時間があまりないことは、日に日に感じられる状況になってきた。それでもデイサービスには行かれていたが、横になることも多くなってきた。

こうなると往診への切り替えが、必要となってくる。もう少しでゴールデンウィークが来るという週末に先生に相談に行った。

お孫さんからも訪問看護師さんからも往診の検討してくださらないだろうかと意見ももらっていた。ドクターに伝えると外来看護師さんが「先生、ゴールデンウィークも来ますし行っておきましょうよ」と後押ししてくれた

ただ、ワクチン接種等もあり5月2日に行くことになった。この日は月曜日。デイサービスを休まなくてはならないが致し方ないですよねと話した。

家族とデイサービスに連絡し、翌週訪問すると、外に出ていた娘さんが「もうほとんど寝ていて昨日はデイサービスもお休みしました。でも今日は気分がいい様子で車椅子に移ったんですよ。」とのこと。言われるとおり、いつものところに座って待っていてくださった。

娘さんがお茶を淹れに行かれているときに2人になり、「今日は少し調子がいいのかな?」と問いかけると止血用のガーゼを噛んだまま「今日はまあまあ」と微笑まれた。その後少し寂しげな様子で「皆さんにいろいろしてもらって来たけど、もう難しくなってきたような気がするよ。本当ありがとうね。能勢さんにいろいろしてもらったね」と言われた。「そんな気持ちなんですね。私もいっぱいお世話になりましたね」と返すと頷かれた。細くなった手をさすりながら「そうか…」と私も呟いた。

このまま逝ってしまわれそうな気がして、「来週の月曜日に診療所の先生がきてくださるって言われてましたよ。一緒にお出迎えしましょうね」と伝えると「そうじゃねー」と微笑んでくださった。ホッとした。

娘さんがお茶を持って来られて昔話をたくさんした。
何せ30年のお付き合い。話題には事欠かない。
娘さんたちからは「私たちの知らない母の話を能勢さんは知っているんだね」と言われると、お母さんが「そうよ。お腹が大きな時もきたからね」と笑った。ありがたいひと時だった。
帰りがけ娘さんから一緒にこの集落からデイサービスに通っている隣の義妹さんについての話があった。認知症があり子供さん(娘さんたちからすると従兄弟)たちは皆県外。子どもさんたちは働き盛りで休みが取りにくいがそれでも2ヶ月に1回は帰って来られている。

そのいとこたちに実は詳しい病状は話していなかったけれど、丁度先週末帰ってきたので話をしたとのことだった。今までおばさんの見守り役もしていたが母に何かあるとそれもできなくなるのでと伝えたとのことだった。私も気になっていたので話しておいてくださり良かったと伝えた。

人の少ない集落にとってこの看取りは住む人の一人一人に影響する。
ある意味見たくない現実だったりもする。
出入りしている人の状況から集落の方も察してはいらっしゃるが聞こうとされない状況もあった。集落の方には?と問うとまだとのこと。そろそろいろんな方にお話ししておいたほうがいいかもしれないですね。仲の良かったご親戚とかにもと伝えた。

またいざという時のためにドクターや葬儀屋さんが来れない時を考えて遺体用の氷の準備をしておいたほうがいいことも伝えた。

話しながら私もご家族も気持ちの準備にもつながっていった気がする。

翌週先生の訪問の前に先着してご家族とご本人と話した。先週訪問した翌日デイサービスに行かれたきりデイサービスには行っていなかった。
最後のデイサービスの日なぜか皆さんに挨拶をされていた。デイサービスの管理者さんからももう最後になりそうな気がすると連絡をいただいていた。
ほとんど寝ていることが多くなり、毎日訪問看護師さんが訪問して点滴されていた。

ベットサイドに行くと「能勢さん、ありがとうな。ありがとうな。なんまんだむ…」と手を合わされてしまった。あーもう本当に最後になるかもしれないと思った。
ご家族も親戚にきてもらったりしながら、ご本人が旅立つ準備をしているような気がすると言われていた。

程なく先生が来られると「ありがとうございます」とちゃんと伝えられた。
「また来週来るからね」と言われると頷かれていた。
「何かあったら連絡くださいね」と言われる言葉にも頷かれ微笑まれていた。

帰り道、長女さんと次男さんが帰って来られる車とすれ違った。
車の窓越しに「待ってらっしゃいますよ」と会話した

そして5月4日の朝。訪問看護師さんから連絡があった。「家族からの連絡では呼吸が荒い様子。先生と連絡取れない」とのことだった。
外来看護師さんの携帯電話番号を伝え調整をお願いした。無事に連絡が取れその日の夕方旅立たれた。お気に入りの先生が死亡確認してくださった。

葬儀屋さんも夜遅くドライアイスを届けてくださった。

翌日帰ってくるお孫さんたちのことを考えて隣市での葬儀となった。
ちゃーんと子供さんたちが揃うのを待って、主治医の先生はいつもなら来れない水曜日、ゴールデンウィークだったから動けた日を選ばれた。みんなにご挨拶を1週間かけてされていた。

なんとも見事な旅立ちだった

親子での貴重な時間


7)旅たちの後

1週間後集落を訪問した

熱心な壇家さんだったからちゃんと法事をしたいし、できたら少しゆっくりしたいとご兄妹は皆さんまだ落人の郷にいらっしゃった。
ベッドは昨日引き上げてもらったらしくもうなかった。
『母が寝ながら見ていた景色を交代で寝て感じてみました』
『寂しいですね…』
そんな会話を交わした。

元気なころ、年末やお盆前に皆さんが子育て時期でお孫さんを連れて帰って来られる準備を楽しそうにされていたお母さんの話をたくさんして偲んだ

集落のほかのお家も回った

義妹さんは亡くなったことを忘れていらっしゃった。週3回のデイサービスに行って自分が元気にしていることが具合の悪いお姉さんが一緒に行くことになった時のために大事だと思っていらした。少しホッとした。認知症をありがたく思った。

他の方はこの義妹さんを心配して泣いているようならと、お泊まりする準備をして何回か訪問されていた。
いろいろと動いてくれてご苦労様。ありがとうと私たちを労ってくださっていた。少なくなってしまったけど、寂しくなるけどここで暮らしていたいからと支えあってるようすが感じられ泣きそうになった

一緒に寂しさを感じながら、日常を感じながらまた訪問を続けようと思った。30年この地域に関わり初めての看取りの時間だった。

ご本人の中にはここで死にたいというより、ここで生きるのが当たり前という軸が最後までぶれなかった。

ご家族もそのお母さんを見ているからこそ、「ここで」という軸がぶれなかった気がした。
各機関も本人やご家族の軸がぶれないからこそチームになれたような気がした。
決して資源の問題ではないのだと教えられた気がした。
互助のある集落は強いとも思った。私はいつもこの地域から学ばせてもらう。
この学びを次に伝えたいと思った
誰かの中の記憶の中に生きていてほしい気持ちがあったのかもしれない。
ご家族に同意を頂き、保健師過程の学生さんにお母さんの話をさせてもらうことにした。いくつかの写真の利用も同意を頂いた。

講義の途中、大きなトンボが教室に入ってき。応援しにきてくださったのかもしれないと思った。

私はこの集落が大好きだ。保健師の私を育てて下さった母のような場所。
だから集落の方との別れは悲しく寂しい。
でもだからこそ最後まで関わらせてほしいと節に願う。
ここで生きるが日常。これからもかけがえのない日常を共に大切にしたいと思う。

この地域の小中学校だったコミュニティスペース
避難所になるため公共Wi-Fiもある
校訓は『負けるな』。この地を訪れる人を今も励ます。

*このnoteは2022年の7月に書き上げました。そして初盆で帰省された際この原文をコピーされてみんなで読んでくださっていました。そして記録としてnoteにすること、お写真を使わせていただくこと、インターネット上にアップすることの同意を頂きました。ただ自分自身がなかなかアップする気になれないまま時がたちました。2023年3月に心豊かで穏やかなエンディングの勉強会に事例提供頂きました。そして今日は一年忌。やっとアップする気持ちになりました。お母さんとご家族の皆さまに感謝です。


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