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大切にしたい「らしさ」と「こだわり」が貫けない苦悩と「折り合い」

生きがいってなんだろう?

生きがいを失ってるかもしれない…

そんな問いを頂いた金曜日

ウキペディアをひいてみた

『good at 得意なもの』『love 好きなこと』『world needs 社会が求めるもの』『paid for 稼げること』という4つが重なるところが『ikigai 生きがい』なのだという

そして、『生き甲斐とは「生きることに価値や意味をもたらす源泉や対象としての事物(生きがいの源泉・対象)」と「その源泉や対象が存在することにより自らの生に価値や意味があると感じられる感情(生きがい感)」の2つの側面から構成される概念』とも書いてあった

さらにそれは喪失と拮抗するものであると。

そうか…喪失感の痛みを生きがいが柔らげ、生きがいの喜びを喪失が奪っていくという『揺れる』概念なんだ

今、得意なことが活かせない…好きなことができない…社会から求められない…稼げない…どこかひとつでもその事象がおこると、感情が揺れる。

本当だね。

バランスが取れてる状態でいることが難しいコロナな日々は生きがいが喪失感に飲み込まれそうになる状況と隣り合わせなのかもしれない

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◯コロナな日々での喪失感

これまで生活を、好きなこと、得意なことから見直してみる

好きなこと…人と出会うこと みんなで何かを語ること、学び合うこと 自然を眺めること、音楽を楽しむ、体を動かすこと、いろんな場所にいき感じそこにいる人と話すこと 身近な場所のいいところを見つけること

得意なこと…出会った人やことをつなげること 考えて企画すること 見つけた面白いことを発信すること

こうしてみると、大好きなことや得意なことは全て人に絡むこと…そしてそれが社会にもとめられ、仕事として稼ぐこともできていた。まさに「生きがい」ある生活。

それがこのコロナな日々が始まって「思いっきり」できなくなった

おまけに多分私は「アウトリーチ」にこだわってきた

踊る大捜査線での青島刑事の「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起こっているんだ!」の言葉が大好きだ。仕事でも町内くまなく訪問することを大切にしてきたし、そのことで新たな発見も出会いも多かった。

講師にいらしていただいた先生方の活動の場にも、必ず行ってみた。「実感したい」がこだわりだった。私「らしさ」だった。

それなのに「人と会うこと」が「不安」だけでなく「命」に関わることになった。

大好きな場所を発信すると「知らない」人が来る…以前は嬉しかったことが「恐怖」になる…真逆なのだ。

人と人が支え合う地域づくりを仕事としてきたのに、人と人が支え合う場を止めなくてはいけなくなった。

「命」を守るために今までと本当に真逆なことを発信することになった。

私の最大の喪失感はここだ。

だから毎日のように感情が揺れるのだ。「耐える」しかない痛みをどうにかしようともがく。

実際に支えあいの活動の中で生きる力を取り戻してきた方々がどうしているかも本当に心配になる。

見守り訪問にいってみると、マスクをしているしていないで歪みが起こったり、涙を見せる人も少なくない。

それでも濃厚接触を避けるために訪問時間が長くなることを出来るだけ避けなければという二つ心で向き合う自分がいる。申し訳なく、悲しくて仕方がない。

「命」を守るため…なのだが、互いの「心」が死にそうで「不安」になる。

一時的であると思う(願う)が、大きな声で泣き笑い、ハグしあい共感を大切にしていた時を失ってしまったこと、こだわりを捨てたこと、そしてそれがいつ取り戻せるかわからない不安が、今私の「喪失感」として密かに大きくなりつつあるのかもしれない。

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◯生きがいはなくなったのか?

じゃあ私の生きがいは「喪失感」に飲み込まれてしまったのか…。

そうではないとも思う。

しあわせなことに今はスマートフォンで気軽にテレビ電話ができる。SNSもある。

戦時中のように書いた手紙を黒く塗りつぶされることもない。想いを伝え合うことはできるのだ。

身近な方たちとは短い時間だったり、マスク越しだったりだがリアルに会うことはできる

今困っていることをなんとか手段を模索しながら解決しようという力もある。

「得意なこと」「好きなこと」「稼ぐこと」「社会が求めているもの」の対象は存在している。そこへ向かう手段が今までと変わってしまったり、得意な手法でなかったり、実感が薄かったり、時間がかかったり、誤解を生みやすくなったり…しているところなのだ。

「らしさ」と「こだわり」を貫くことができない苦悩。

そうある意味、日々混乱してるのだ。

特に「共感」に関しては、いくらリモート化で距離を超えて素早くできそうに見えて、実は「実感」が伴わない関係性は「共に感じてる」と思っていても、微妙なズレが生じることもあり、回り道なんだと思う。

言葉で確認し合うしかないから…

でも繋がってないよりもずっといい。

拠り所の場はリアルではないけれど、見えない形でも繋がれる力をつけようとしているところなのだとも思う。

回り道は悪いことばかりじゃなくて新しい景色が見れるチャンスがあるのかもしれない。

いろんな新しい手法やアナログな古い手法もこんな時だから新しい価値を持ってきている。

これって今までと違う意味で実感とアウトリーチへのチャレンジ

例えばテクノロジーを使って話をすることから、先日オンラインでのショッピングモールのチャレンジも目にした。参加できなかったけど次は行ってみて実感したいと思う。

オンライン学習会や同窓会でで新しい人や実感に出会うこともできた。これからの展開がどうなるかは揺れているかもしれないけれど、それもまた「一期一会」

本を読む、手紙を書く、手紙の返事を待って郵便受けをワクワクと待つ時間もかつては大好きだったことじゃないか

持っていたものを失ったこともあるけれど

混乱したことで持っているものに気づき、つながり続けることで折り合いがつく経験はハグとは違うけど共感に近い文化になるのかもしれない。

◯生きがいとは?

こうやって考えてくると、揺れ動きながらも「らしさ」や「こだわり」を持って実行し、社会に役立っている実感をもつ瞬間を大切に生きることが私にとっての『ikigai 生きがい』だと思った

生きがいをもつというが、見えるものでもないしある意味「時(瞬間)」なので、その時の心持ちで時の質が変わる。「生きがい」が持てたり持てなかったりすることがあって当然なのだ。

それに対して喪失感の痛みは、痛みなので簡単には引かないし持続性があるから、瞬間をつなぎ合わせ生まれる生きがいにとってこのコロナな日々はめっちゃ不利だ。

ホントに私自身気がつくとため息をつき、イライラしていることがある。なんと生きづらいのだろうと思う。

そんな時は、昨年の夏、地域ケアを支える仲間たちの集いで奥田浩美さんと堀田聡子さんとのセッションで学んだ「まあいいっか」とその状況を認めて一息つき、あるものを確認してワクワク感を高めながら喪失感と折り合いをつけよう。

綱引きのように引き合うのではなく「折り合い」をつける。そうこれは生きづらさへの静かなる挑戦。

ワクワクする瞬間の感情は、折り合いに向けたエネルギーチャージ

混乱の中だからこそ、あのワクワクな瞬間「ikigai」を持っている瞬間をつなぎ合わせて過ごして行こう。

どう生きていても、過去は現在を作り、現在は未来を作る。そうなのであれば、私はたとえ一瞬だとしても「ikigai 生きがい」を大切に生きたいと思う。

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