見出し画像

『福岡伸一、西田哲学を読む』について感想というか何というか

こんばんは。本日もお疲れさまでした。

noteを書くという行為も3週間ほど続けてこられました。

ただいま色々なことに挑戦している最中ですが、アウトプットするのは楽しいです。でも、本を読む時間がとれなくなっているのが本末転倒と言いましょうか、なかなか難しいものです。

そういうことですので、今回の読書感想文は「読み終わってません」。というか、この本に関しては読むのが大変で、何回かに分けて感想文というか、考察を述べていきたいと思います。この本の他にも読んでいるものが登場しますが、それを含めて私の思索の道のりですので、どうぞお付き合いください。

西田幾多郎という方をご存知でしょうか?私はたしか高校生の時に倫理の教科書で知った人物です。この方は「日本で唯一の哲学者」と言われている人で、京都にある名所「哲学の道」はこの方が通った道だそうです。でも考えが難解で良くわからないのです。私はぼんやりと「純粋経験」という術語に惹かれてずっとこの方のことは意識していたのですが、最近ようやく『福岡伸一、西田哲学を読む』で少し理解できたかもしれません。西田幾多郎本人の書いた『善の研究』は言葉づかいが古いから読みづらく、内容も難解なので避けてきました。今回読んだ本は生物学者の福岡伸一さんと、哲学者の池田善昭さんの対談で進むので、読みやすかったです。とはいえ、内容は難しいですが。

私がこの本を読もうと思ったきっかけは、『7つの習慣』という本でした。その本には、自分の価値観というものを生活の中心に据えて行動しよう、というテーマがあり、そこに感銘を受けた結果、「自分が中心にしたいのは、純粋経験だ」と思い、読み始めました。

その結果、やっぱり難解だな、と思いました。とはいえ、少しだけわかった(つもりになれた)ことがあるので、それらを整理していき、今後の生活に役立てたいと思います。また、この本の理解に役立ったのが、次の3冊です。『脳が認める勉強法』、『ファクトフルネス』、『悪魔とのおしゃべり』。実はどれも読み途中です。読む時間が欲しいなー。

さて、私の執着している「純粋経験」ですが、簡単に言うと「自然を真の実在として、思慮分別を加えることなく経験すること」となります。まだ難しいですね。もっと平たく言います。「事実のままを知る」です。何かに似ています。ファクトフルネスです。

ファクトフルネスが指す「事実」は、データを見る際に現れる我々の本能とも呼べる勘違いを抑えたあとで見えてくるものです。それら勘違いについては割愛しますが、ファクトフルネスで「事実のままを知る」というのは、「過去のデータを思惟を挟むことなく見る」という行為です。西田もまた同じようなことを言っているのだと思います。ただ、西田が扱うデータは「自然」です。データという切り取ったものではなく、自然という一体化したものを扱っています。その意味で「自然を真の実在として、思慮分別を加えることなく経験すること」となります。

どうしたらそんなことできるの?という感じですが、そのことのヒントは書かれていました。「リンゴを分析的に見ていくのではなくて、リンゴはリンゴとしてそのままに経験しなければならない」。

上記の言葉は西田の友人である仏教学者の鈴木大拙のものです。ですが私はこの言葉を知るのに前後して、リンゴを引き合いに出した物語を知ります。その物語のタイトルは『悪魔とのおしゃべり』です。

悪魔「リンゴが2つ、テーブルに置かれている。右側のリンゴが、左側のリンゴを『所有』することなどできるのか?もしも右側のリンゴが『あのリンゴは俺のモノだ』と言い始めたら、どうする?」

みつろう「メチャクチャ違和感しかないに決まってるじゃないですか。ただテーブルの上に2つのリンゴが置かれているだけですから!」

悪魔「貴様らは、同じことをしている。リンゴが、『ベンツを所有した』と言っている。リンゴが、『高級バッグを所有した』と言っている。リンゴが、『土地を手に入れた』と言っている。貴様ら人間は、毎日こういうことをしている」

みつろう「物質への所有もマボロシ。他人との関係性の所有もマボロシ。流れる時間への所有(持ち時間)もマボロシ。そもそもこの『わたし』に所有できることなんて、外界には1つもない気がしてきた」

悪魔「外界どころではない。『わたし』は誰のモノなのだ?俺が、俺を、所有することなんてできるのか?どんな状態だ?『リンゴ』は『リンゴ』のものではない。リンゴだ。ただ、『リンゴ』がテーブルに1つ置かれているだけだ。そして、それこそが『わたし』の真実なのさ」

つまり、普段から我々が常識だと考えていることを抜きにして、自分はリンゴだと置き換えて体験すればいいのです。すると、周りの物事がすべて「ただそこにある」と感じられるようになります。

純粋経験とは、常識や勘違いに飲み込まれずに、「今ここ」だけを意識して行動していくことを意味していると、私は感じました。

・・・これって何の感想文?まあ、読書したものの感想文だからいいのかな?

あ、ちなみに『脳が認める勉強法』という本は、西田幾多郎のいう「行為的直観」と福岡伸一の「動的平衡」とつながりを感じました。ここでは純粋経験だけ扱いましたが、まだまだ西田哲学は奥が深い。今後も西田哲学を自分なりに追っていきたいと思います。

では、今回はこの辺で失礼します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?