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哲学とは何か【10分de哲学】

はじめに

哲学は、往々にして過小評価、ないし過大評価されている学問であると言えます。

「哲学は役に立たない」「哲学をすると頭がおかしくなる」「哲学は難解で深遠な言葉をつらつらと並べているだけだ」など、どのように過小評価されているかの例は枚挙に暇がありません。

しかし、他方で哲学が過大評価されている側面もあるでしょう。「哲学は役に立たない」というのはある意味で正しく、ある意味で間違っていると思いますが、昨今のビジネス界隈では、経営者が哲学を学ぶというのが密かに流行っているようです。

全く悪いことだとは思いませんが、社会貢献ができるような善い経営を志すという意味で哲学を学んでいるということであれば、直観的に遠回りで、かつそれこそ大して「役に立たない」ような気もします。

そういうわけで、哲学は一般社会においてあまりその実態を理解されていないというのが実情なのは、概ね正しいと言えるでしょう。

本稿は、「哲学とは何か」を理解することを通して、哲学に対して抱いていた思い込みを払拭するためのものです。

「哲学とは何か」。
この問い自体、そもそも射程の広すぎる問いでもありますが、ここではあえてこの問いのまま見ていくことにします。

哲学の様々な側面を理解することで、哲学の理解を深めるのに役立つと考えるからです。


哲学の始まり

哲学が最初に誕生したのは、紀元前6世紀頃の古代ギリシアで、世界初の哲学者はタレスという人物だと言われています。


タレス(紀元前624年頃 - 紀元前546年頃)

古代ギリシア人が偉かったのは、ギリシア神話など、神話的世界観が世の中を強く席巻していた時代に、現象の根源的な「原理」を探ろうとしていたことです。

タレスの有名な考え方に、万物のアルケー(原理・根源)は「水」である、というものがあります。

のちにデモクリトスという哲学者が、万物のアルケーは「原子(アトム)」だと言いました。
この考え方は、近代の化学の考え方に受け継がれています。
正確にはデモクリトスの考える「原子」は少し違いましたが、このように考える先人がいたおかげで、遠くの新しい考え方を見渡せるようになるのです。


デモクリトス(紀元前460年頃-紀元前370年頃)

さて、彼らに共通するのはどれも、複雑な世界現象に対して、神話的説明を試みるのではなく、あらゆる事柄を捨象てみて、抽象的な「原理」を探るということでした。

その方法は、具体的な要素を排除し、あらゆる事柄に当てはまる共通項を見出すことで抽象化することです。例えば、サッカーと野球という具体的な競技を捨象すれば「スポーツ」になります。
また、私とあなたを捨象すれば「人間」になるでしょう。これを究極的に捨象していくと、生物とか、存在とかになっていきます。

なので、哲学に日常的な思考を感じない理由は、このように抽象的な概念について考えているからだと言うことができます。

話を戻すと、古代ギリシアの哲学者たちは、あらゆる物事の「原理」を探究してきました。

これは、その後の哲学者たちにも概ね共通することです。

また、これが最も重要なことですが、実はほとんどの学問の始まりは哲学なのです。

算数や数学のようなものは有史以前にもあったことがわかっています。
しかし、これは生活における実用的な要請から発達するものだと言えます。

『自然学』『政治学』『論理学』『倫理学』などの著書を書いた、アリストテレス(プラトンの弟子。プラトンはソクラテスの弟子です。)という哲学者は、「万学の祖」と言われています。


アリストテレス(前384年 - 前322年)

アリストテレスは、当時の哲学者たちが行なっていた知的探究を分類して、学問分野として確立させたという意味でも、哲学史上最も重要な人物の一人であると言えます。

そういうわけで、ほとんどの学問は、哲学から誕生しました。

これは考えてみれば当たり前のことです。
哲学は物事の根本的な「原理」を探究するため、政治の根本的な「原理」を探ろうと思えば、政治学のような学問ができるでしょうし、自然現象の根本的な「原理」を探ろうと思えば、自然科学のような学問ができるでしょう。

哲学史の最初の最初を見てみるだけでも「哲学は何の役にも立たない」どころか、哲学がもたらした貢献的意味を理解できることだと思います。

ここまでは、哲学の始まりの場所、古代ギリシアに目を向けてきましたが、次に、近代の哲学者にも目を向けてみましょう。

哲学はどこへ行くのか

まず、ヴィトゲンシュタインの有名な言葉から。

哲学の目的は思考の論理的明晰化である。哲学は学説ではなく、活動である。
哲学の仕事の本質は解明することにある。
哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。
思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫)p.51

ヴィトゲンシュタインが言うように、哲学の目的は、「思考の論理的明晰化」にあると言えます。


ヴィトゲンシュタイン(1889年 - 1951年)

その意味を少し深堀していきましょう。

まず、「哲学の始まり」で見てきたように、哲学はほとんどの学問の生みの親でした。

アリストテレスが、哲学者たちが哲学として考えてきたものを「分類」し、分野として「確立」する役割もあったのでした。

では、他の学問分野にも分類されずに残った哲学という学問分野の役割は、どこにあるのでしょうか。

それは、他の学問分野では扱えない事柄を探究することにあると言えるのではないでしょうか。

このことについて、ヴィトゲンシュタインはこう言っています。

哲学は自然科学ではない。
(「哲学」という語は、自然科学と同レベルのものを意味するのではなく、自然科学の上にある、あるいは下にあるものを意味するのでなければならない。)

同上、p.51

つまり、他の自然科学のような分野で扱える事柄であれば、そもそも自然科学が探究している事柄であるし、自然科学が探究すべき事柄であると言えますが、哲学は、自然科学のような学問が扱えない、より抽象的な事柄について扱う必要があるのです。

例えば、哲学以外の他の分野は、人間がより善く生きるために必要なことは教えてくれません。

仮に、睡眠医学がより善い睡眠の方法を教えてくれて、栄養学がより善い食事の方法を教えてくれて、運動生理学がより善い運動の方法を教えてくれて、労働経済学がより善い仕事の方法を教えてくれたとしても、当の「人生」をより善く生きる方法や「人生の意味」については教えてくれません。

哲学の役割は、「人生の意味」など、他の学問分野では扱えない(扱いにくい)問いを扱うことだと言えます。

しかし、「人生の意味」というと、「そんなのは人それぞれだ」という向きがあります。

この手の論法は相対主義といって、「原理」を探究する営みである哲学という考え方に背く考え方ですが、もっと根本的なことを言えば、「人それぞれ」だからといって、その「人それぞれ」に遺伝的、社会的文脈から個人差が有意な個人差があるはずです(つまり相対的ではない)。

また、「人生の意味」というと「答えのない問いを考えても意味がない」という向きもあります。

この手の論法もよくよく考えればおかしな話です。確かに、「一つの答え」はないかもしれませんが、「複数の答え」ないしは「(一つの、あるいは複数の)誤り」、というのはあるはずです。

「人生の意味」を考えることだけが哲学のやっていることではないですし、むしろ一般的に考えられているほどこのような事柄は議論されていないですが、ともあれ、哲学は「原理」を探究する学問であるということができます。

最後に、かの偉大な物理学者、ニュートンの著作名を紹介しておきます。


『自然哲学の数学的諸原理』

おわりに

ここまで、哲学の始まりや哲学の学問的立ち位置、哲学の目的や役割などを見てみました。

概して言えることは、哲学は良くも悪くも理解されていないということです。

特に、哲学の目的は「原理」を探究することだというのは、哲学者の間でも忘れ去られがちなことです。

最初は難解な言葉でたぶらかされているようで、異様な拒否反応を示してしまうこともあると思います。

しかし、そこには世界や社会、人間を理解するための重要な考え方が詰まっていることが多いです(すべてに、とは言いません)。

例えば、ホッブズなどの哲学者のおかげで今の自由で民主的な現代社会があります(『リヴァイアサン』を読んでみてください)。

哲学のよいところだけを摂取して、各々、是非あらゆる学問的探究に活かしてみてください。


#10分de哲学 とは、「プロのアナウンサーは視聴者が聞き取りやすいように1分で300文字を読み上げる」ことから、初めて出会った考え方を理解するためには「10分で3000文字を読む」ことが限界だという考えのもと、筆者のアウトプットを主な目的にした、3000文字程度の不定期な投稿です。



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