バイオリニストにおける肩の障害について

はじめに
 バイオリンを持つ体勢が生理的に負荷をかけることは明らかであるようにみえる。特に左上肢を挙上し、前腕を最大回外位にし、上腕を内転する位置で演奏することは肩関節をはじめとした筋骨格系に過大な負担がかかっている。
 根本、酒井らによると(根本孝一、酒井直隆:音楽家と医師のための音楽家医学入門 2013 協同医書出版社 ISBN978-4-7639-0037-1)では一般的なオーバーユースによる障害として、上腕骨外側上顆炎、肘部管症候群、肩関節周囲炎(肩インピンジメント症候群)、腱板断裂、胸郭出口症候群が記載され、バイオリンの特性に強く影響されるオーバーユースによる障害として尺骨神経障害があげられている。このなかで肩インピンジメント症候群と腱板断裂については保存的療法で改善が得られない場合手術療法が選択され、演奏家生命に関わる事態に発展する例がある。
 腱板炎(解説)
 腱板炎はバイオリニストに認められるオーバーユース症状としてみられる。報告では主に右に多く、ボウイングによる肩の繰り返し動作が原因と考えられている。左の腱板炎についての記載は少ない。
 
 上腕二頭筋長頭腱炎(解説)
 上腕二頭筋の長頭腱は上腕骨の上部を回り込み上腕骨に腱が付着している特異な解剖をもっている。腱の腫脹は肩インピンジメント症状としての痛みの原因になりやすい。また後述する腱板断裂に併発することもしられており、相互の障害の関係については明らかでなく、(Pil SG et al Instr Course Lect. 2012;61:113-20.)肩の障害が複雑な構造と要因をもっていることが示唆される。
 腱板断裂(解説)
 腱板断裂は50代から60代に多く、重いものをもったりしたことがきっかけで主に蕀上筋腱が断裂することにより発症し、上肢外転時の疼痛性運動制限をきたし楽器の演奏が困難となる。合併しやすいインピンジメント症候群は演奏姿勢での痛みを生じさせる。最近の健康寿命の延長にともない、楽器演奏をする年齢が延長している。また、最近の音楽演奏の要求の高度化により、20世紀の作品など楽器演奏における高度化が一般的になっており、これも楽器演奏の負荷に拍車をかけている。
 そのような背景をもとに本稿ではバイオリン演奏についての肩の問題特に今回は左肩について焦点をあてて概説したい。
 バイオリン演奏にともなう左肩の痛みのほとんどは腱板炎と上腕二頭筋長頭腱炎で説明され、ステロイド注射とリハビリなど保存療法が選択され、手術適応に至る腱板断裂はバイオリン演奏そのものでは起こりにくいとされているが、著名大バイオリニストについて腱板断裂に至るいくつかの例がみとめられた。
 Itzhak Perlman
 世界的バイオリン奏者であるパールマン62歳2008年に肩の炎症のため仕事をキャンセルしており https://www.haaretz.com/…/violinist-itzhak-perlman-cancels-… 、その後左腱板断裂の手術を受けている http://articles.chicagotribune.com/…/0807200101_1_piano-tri…  http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html… 。そのため1シーズン演奏活動を休止している。57歳の2003年にはニューヨークホスピタルにて右の腱板断裂の手術をうけており http://blog.al.com/…/2008/04/perlman_cancels_tuscaloosa_con… 、両側の障害を克服して復帰している。
 Cecylia Arzewski
 http://www.ajc.com/…/the-beauty-art…/DYhfaeiAaOmphtioPRkGbL/
 アトランタシンフォニーオーケストラのコンサートマスターであるセシリア・アルゼフスキーも左肩回旋筋腱板の手術を受けている。記事によると他に20名、主にバイオリニストであるが、のASOメンバーが同様の障害を持っており、これらはASOの組合の包括的保険によってカバーされているという。
 Károly Schranz
 http://blogs.denverpost.com/…/takacs-quartet-second-vi…/207/
 ハンガリー出身のメンバーで構成されアメリカを拠点に国際的に活動しているタカーチ四重奏団の第二バイオリン奏者カーロイ・シュランツは58歳の2010年に回旋筋腱板の手術を受けている。
 一方、イギリスの奏者を検索してみると手術をせずに保存療法を選択されているケースがみられた。手術例が米国で行われていると対照的である。
 ロンドン交響楽団のLennox Mackenzieは左肩の痛みを抱えていた。医師に腱板損傷と診断されステロイド注射をするが無効であった。理学療法をうけているが職場復帰できないでいる。診断は単純X線と診察のみでMRIは施行されたとのコメントはない。階段から落ちて手をついたことのある既往が腱損傷を惹起したのではと言われている。(strad5Feb 2015)
 同じくロンドンのバイオリニストDavid Juritzは右肩のトラブルを抱えていた。肩峰下滑液包の破裂と診断され、ステロイドの注射を受けている。ピラテイスを習い回復したとことである。(strad 11 feb 2015)
 20世紀の世界的バイオリニストであるJascha Heifetzが晩年に肩の手術をうけており、その後実質的に引退していることが注目される。(Ayke Agus Heifetz As I Knew Him) ハイフェッツは73歳の時に、筋と腱が骨から剥離したときに内出血がおこり、その後フィラデルフィアで右肩の手術をうけており術後の回復は不十分であった。父親が50歳になったら演奏をやめるようにアドバイスしていたらしくそれを守らずに演奏し続けたことを責めている。
 左肩の障害に注目したケースレポートが散見される。Stienmetz, June 2008 Medical Problems of Performing Arts.では、44歳男性のオーケストラバイオリニストの例にて腰椎のアンバランスなど筋肉の緊張の問題を取り上げ、バイオリンの保持の仕方をかえ、筋力のバランスを理学療法にて改善し、痛みの問題を解決したとしている。またLeijneらは54歳女性のやはりオーケストラバイオリニストの例をとりあげ、13年前の示指伸筋腱の障害が遠因になっているとしている。
 職業演奏家、特にバイオリニストについて一般的にどの程度の演奏関連の障害があるかについての調査がある。
 ドイツのオーケストラ奏者における調査
 Steinmitzらは2011年から2013年にかけてドイツのオーケストラ10団体の演奏家に体の各部の痛みについてのアンケート調査を行っている。 (Clin Rheumatol(2015)34:965-973)
 回答した408名の演奏家について分析し、全演奏家にて頚部の痛み(72.8%)に続いて左肩の痛み、左手首の痛みが多く(55.1%)、右肩の痛み(52.2%)がそれに続いていた。痛みの部位については多変量ロジスティック回帰分析を施行し、左肩については高弦1.0とすると低弦0.33、木管0.38など他の楽器についてはオッズ比が1以下であり、高弦以外のサンプル数がやや少ないことを考慮にいれてもバイオリニストにおいては頚部、左肩、左手首に痛みが起こる頻度いが高いとしている。
 システマティックレビュー
 演奏関連筋骨格系疾患 Piaying-retlated musculoskeletal disorders (PMRD)
についての調査報告についてのシステマティックレビューは1998年のZazaの報告(Canadian Medical Association Journal;Apr21, 1998;158 8;1019-25)をはじめいくつかなされているが、バイオリニストとヴィオリストに焦点をあてたシステマティックレビューがMoraesらによってなされている(Acta Ortop Bras 2012;20(1)43-7)。英語、ポルトガル語、スペイン語にてのデータベースより最終的に30の論文を抽出し分析している。左上肢の問題は右上肢の約2倍あり、滑液包炎、腱炎が上肢挙上と最大回外位をとることによって起こるとしている。
 H.S.Leeらは、5編の先行論文を調査し、73.4%から87.7%の演奏家になんらかの筋骨格系疾患があるとしている。左上肢についてハイポジションでの肘関節と手関節の過屈曲、前腕の強度の回外位が、指をたてて音がばらつかないようにする動作について前腕の痛みに関連すると指摘している。
 産業医学的視点
 職業演奏家について、演奏家の健康と安全を守ることは喫緊の課題となっている。PRMDを防ぎ職業演奏家の健康をまもることはまさに産業医学的視点で考えられる。Raymondらは産業医学的視点からアメリカ南西部のオーケストラ奏者について調査している。(workplace health & safety Vol60 No1 2012 19-24)32人の調査例のうち半数がバイオリンかビオラ奏者であり、全体のうち30人が肩の痛みかこりを訴えており、最も回答の多い症状であった。腱炎や筋骨格疾患と診断されておる。
 健全な演奏生活のために 
 AAHON journal 2006 July Vol54,No7 でFoxmanらはPRMD予防につちえの演奏家教育の提案をしている。演奏家は筋骨格系疾患について、反復する動きや長時間練習などによりハイリスクデあり、筋力や柔軟性とあわせて姿勢や練習環境にも注意をむける。職業ナースなどによる障害の早期発見と介入を提案している。
 障害がでてしまったバイオリニストについてのカムバックプランについてAmerican String teacher 2007 nov 52-55でCooperが具体的提案をしている。一日5分からの練習からレベルに応じてどのようなエクササイズをするか示している。
 バイオリン演奏にとって重要な肩をまもるための方法が考案されている。このyoutube の動画は時間がないバイオリニストのためのゴムチューブを利用した訓練を紹介している。
https://maestronet.com/forum/index.php…
 障害予防の視点から
 上肢帯のインナーマッスルに対する訓練、肩甲骨を動かせる能力を獲得すること、体幹の筋力を鍛えることがバイオリン演奏にて過大な負担のかかる肩関節から損傷をまもることが大切である。
 すべての年齢にわたって、音楽的視点でなく筋骨格系視点からも指導やチェックをうけることが望ましいと考えられる。幼少時の教育から問題点に気がつき修正する能力がバイオリン教師に求められる。またアダルトラーナーについては、体の柔軟性が落ちているのでバイオリンを習うとことともに、パーソナルトレーナーなどからのアドバイスをもらうことが大切である。長寿社会になり演奏寿命を長く維持することが重要な課題であり、肩関節疾患の予防がその頻度と故障した場合の影響の大きさを考えるともっとも重視する視点の一つと考えられる。
 結語
 バイオリニストはオーケストラの他のどの楽器よりも痛みなど演奏関連障害になりやすく、特に左肩の問題が最も多い。これは左上肢を挙上保持し、極端な回外位をとる楽器の特性によるところが大きい。
 左肩の障害は痛みを呈し、医学的診断としては腱板炎、上腕二頭筋長頭腱炎が主であるが、他の要因がくわわり、腱板断裂に至る例があり、著名バイオリニストにおいても腱板断裂に手術とリハビリを要して、演奏活動を中断することがある。
 高齢化長命化の時代において、演奏を高齢になっても続けられるようにすることが今後の課題となっている。障害を早く発見し介入する必要があり、職業音楽家の産業医学的問題としても認識すべきである。
 障害予防のための演奏家、指導者にたいする教育、アドバイザーによる援助の必要性がある。50歳を過ぎたバイオリニストについて肩関節健診が考慮されるべきである。

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