半月

デビットボウイが言っていた
自分の道は分かっていると
自分も自分の道はある程度分かっているつもりだ
分かるといってもそれは能動的に根本の自分の道をあらかじめ定めているからだろう
とはいえデビットボウイを好きでもあり苦手でもある
それはまるっきりの彼は表現者であり、真っ向から全てと戦おうとしていたからなのかもしれない
そもそも私がニーチェが好きではないからという帰結に落ち着くかもしれない

だがあの日あの時どうも簡潔で単純な私の道は酷く矜羯羅がったようだ
それが良い悪いでもなく
根本としての道は変わりはしないのだけれど今は酷く矜羯羅ったし少しばかり道が揺らいでいる

今日は月が半分に欠けている
いやまだ月が半分輝いていると言った方が正しいのか
今まではいつも窓を開けると失ったはずの灯りがそこにあって、いや寧ろ窓を開けなくても常にそれは心に差し込んできた
私はそれを削ったり、目を背けたり、直視して慣らそうといろんな事をした
今はどうするのが良いのか
少なくとも以前のように削ったりする必要はなくなったのかもしれない
それは少し喪失感を伴っている
ただまだ今は月が半分も輝いてると思うし
そうでありたいと思っている
そうでなくなった時きっと1番の喪失が待っている
ここで私の思考は止まる
私は考え過ぎるのもあまり好きではない
理系のくせに論や理屈より感覚の方が何故か大事
それはきっとデビットボウイの事が苦手でもある理由の一つ

追記
私を常に救ってくれるものは
過去の気づきと
それによって生まれた思想なのだろう
それは誰かに言っても意味のあるものではない
あるとすれば同類意識を育むもの、あるいは歩みを加速するもの以上にはなり得ない
何故ならそれは0から学べるものではなくて
自己として必要不可欠な感覚としての理解が無ければ生まれないものだからだろう

また追記
学んでも常に得られないというわけではなくて
学ぶものが性質的に異なる場合は
それは知る事しかできないのだと思う
けれどそれを知る事は新鮮で面白い事だろう
自分の中にあるものを積み重ねてもう一段高く積み上げるよりよっぽど

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