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#010 トリリンガルになれた日

 1月3日、ローマのホテルにて起床。

 少しクセのあるソファベッドには慣れてきた。着替えて荷物を整理したのち、1Fの朝食ビュッフェへ。カリカリベーコンにウインナー、スクランブルエッグ。僕の皿はいつまで経っても小学生のままだ。ひとつ変化があるとすれば、小さなパンに生ハムを乗せ、塩とオリーブオイルで食していることくらいか。

ヴァチカンへ

 8時半にホテルを発ち、旅行代理店の日本人に地下鉄の乗り方を教えてもらう。切符は駅ではなくタバコ店で買うのが確実か、初見殺しも甚だしい…。ホームに電車が到着して驚いた。車体の落書きが残ったまま、何食わぬ顔で走っているのだ。これぞ異文化かと感嘆しつつも、スリを警戒して乗車。

 10時前、ガイドに導かれて到着したのはヴァチカン市国。ここが、ローマ=カトリックの総本山。他の何にも形容しがたい空気感には圧倒される。キリスト教徒になろうとは今後も思わないが、世界史や映画で見たような光景にはただただ心が躍った。そのまま本日の目玉、システィーナ礼拝堂へ。古代の神々や歴代皇帝の彫刻や数々の壁画を見て物思いに耽る。この作品たちは、最古のもので約2000年前。どのような想いで遺され続けたのか。もしも作品そのものに意思があるとすれば、彼らは現代社会に何を思うのだろうか…。

老芸術家の狂気

 さて、いよいよ天井画へ。誰もが一度は目にしたことのある、ミケランジェロの代表作『最後の審判』だ。
 実はこの作品が展示されている空間に入る前、日本人のガイドさんからいくつか解説を聞いていた。というのも、作品自体の大きさと情報量の多さにより、最低限の事前学習がなければ、受け取ることすら不可能だからだ。細部の描写や時代背景などを把握した上で、作品に挑むことになる。

 実物を目の前にして、ようやく生で見れた喜びと同時に、その迫力に圧倒されて言葉を失った。やはり最も強烈に受け取れたのは、ミケランジェロの狂気である。ひとりの芸術家、仕事人としてこの作品を完成させた彼の執念というべきか。曇天の自然光のみで薄暗かったにもかかわらず、文字通りその場の空気を支配していた。ちなみにこの空間は平日朝の新宿駅並みに混雑しており、観光客の国籍もまちまちで興味深かった。

 休む間もなく、隣接しているサン=ピエトロ大聖堂へ。こちらの美しさにも思わず息を呑む。黄金に輝く中央の祭壇から、圧倒的なオーラを感じた。ここではどんな会話も許されないのかもしれない。そして中世から、何人の信者がここまで辿り着いたのだろうか…。

タクシードライバー

 時間がない。コロッセオの入場チケットとの兼ね合いで、移動に費やせるのは最長で40分。こうなると使うべきはタクシーだ。ヴァチカン市国に別れを告げ、事前に調べた乗り場に着くと、既に何台か停車している。先頭車の若い運転手に声をかけて乗車。家族3人が後ろに座り、自分は英語話者として助手席へ。

 「コロッセオの入り口まで」と伝えたのちは、少し無言が続いた。しかしここがチャンスだと思い、勇気を出してイタリア語を投げてみた。

“Come sta oggi?” 「今日の調子は?」
“Buono, grazie!” 「良い感じだよ、ありがとう!」

“You learn Italian for this trip?”
“Yes!”

“Parlo un po’litaliano ma il mio italiano non ne buono. Sto imparando.” 
「イタリア語は少しだけ話せるよ、上手くないけど。勉強中なんだ」

“Buono, buono!” 「上手いじゃんか!」
“Grazie!” 「ありがと!」

 フレーズは丸暗記したものを口に出しただけだが、それでも少しは伝わっているのが表情でわかり、本当に嬉しかった。その後、彼は英語でローマの観光ガイドとイタリア社会の話をしてくれた。「19世紀半ばにイタリアを再統一したんだよね?」「そう!その通りだよ!」世界史を勉強していて本当に良かったと思えた瞬間だ。

 楽しいタクシーでのひとときも、間もなく終幕。コロッセオに到着し、父は少し上乗せした料金を支払う。すると運転手の彼はこう言った。「チップはありがとう。でもこのメーターに表示されているのが正規の料金だから、ふっかけてくるドライバーには気をつけてね!」言うなれば、純な良心である。彼に出会えて良かった、と心の底から思えた瞬間だった。丁寧にお礼と握手をして、我々はタクシーをあとにした。

 彼の名前を聞き忘れたのが唯一の心残りだ。なんとなくルイージっぽかったので、僕のなかではルイージと呼んでいる。しかし、会うことは二度とないだろう。旅は一期一会。

帝国遺産の散策

 コロッセオの入場には手を焼いた。予約したチケットの1時間前に到着するよう指示があったのに、いざ入り口に着いたら「その券は5分前から有効」だそうだ。まったくこの国は、時間に厳しいのか緩いのかわからない。仕方がないので、軽食で腹を満たしながら待機。

 14時半ごろ、ようやくコロッセオ内部に入った。ヴァチカンとは少し異なる、勇ましいローマ帝国が全身で感じられる。同時に、かつてここで命をかけた剣闘士について思いを馳せる。肩書きこそ立派だが、実際の生活は奴隷と大差なかっただろう。今、観光客として訪れていることが不思議に思える。

 屋内の展示物を一通り見たのち、開けた闘技場へ。辺りを見回すと、どうやらもう一つ上の階からこちらを見下ろす人たちがいる。僕らもあそこからコロッセオを一望したい。しかしどこを探しても、上に繋がる道が見つからない。仕方なく近くのショップ店員にきいたところ、「ここからは行けない。入り口から別」と言われた。さすがにここから引き返すわけにもいかないので、上るのはあえなく断念。とはいえコロッセオは充分堪能できた。なのでここは一度出て、チケットのセットになっているフォロ・ロマーノというローマ帝国の遺跡群を見に行くことに。

 数分歩いて、なんとか入り口を見つけた。荷物検査を受けている時、後ろから重厚な金属音がしたため振り向くと、なんと門が閉まっている。そう、我々は今日最後の客だったのだ。危ない、コロッセオの上の階に辿り着いてたら確実にこちらは入れなかった。



 驚くべきことに「トリリンガルになれた」と呼べる出来事が、この日にもう1つ残っている。なれたというより、ならざるを得なかったと言うべきか。
あれは夕飯のあとだった。

To Be Continued…


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