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清水晶子による「学問の自由」の定義を検討する

 清水晶子の講演「学問の自由とキャンセル・カルチャー」が話題になっています(書き起こしはこちら)。この講演については、キャンセル・カルチャーを擁護するという講演の主旨に対してだけでなく、主張の背景にある清水の「学問の自由」への理解も批判にさらされているようです。その際、ミルの『自由論』に代表される「学問の自由」への古典的な擁護を引き合いに出すものもあれば、日本国憲法第23条に対する学説・判例上の解釈を引き合いに出すものもあるようです。清水は、講演の中で、ポリティカル・コレクトネスやキャンセル・カルチャーを批判する際に引き合いに出される「学問の自由」は、「日本国憲法で保障された『学問の自由』とはかなりかけ離れたもの」だとしています。清水の「学問の自由」に対する理解は妥当なものなのでしょうか。
 この記事では、清水が講演の中で行っている「学問の自由」の定義を検討していきたいと思います。その際、憲法23条に関する判例や学説も参照しますが、清水の講演は法の解釈を目的とするものではなく、清水の説明と憲法学における解釈との細かい相違を問題にすることは建設的な批判とは言えないでしょう。大事なのは、憲法23条の背景にある基本的な考え方や、それが守ろうとしている価値を、清水が適切に理解し、尊重できているかどうかだと思います。

「学問の自由」の第1の定義

 講演において清水がはじめに提示する「学問の自由」の定義は、国際大学協会によるものです。

1998年の国際大学協会声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」という文書があるのですが、これによると学問の自由という原則は学術コミュニティーの構成員すなわち研究者・教員・学生が倫理的規則と国際的水準に関して学術的コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由、と定義できる、というふうにされています。

 弁護士の平裕介が指摘するように、この定義は日本国憲法下においてなされてきた「学問の自由」の解釈とは一致しません。最高裁は狭義の学術的コミュニティの成員(大学のメンバー)だけでなく、小中学校や高校の教員にも一定の範囲で学問の自由の一部としての教授の自由が保障されるとしている(旭川学テ事件判決)からです。
 学問の自由の主体が大学教員に限定されるかいなかは清水講演の趣旨に大きく関係するものではなく、これは重要な論点ではないかもしれません。とはいえ、後の箇所で「日本国憲法で保障された『学問の自由』について言及しているのにもかかわらず、日本国憲法の判例・学説ではなく国際大学協会による定義を提示していることには、恣意性を感じます。

「学問の自由」の第2の定義

 清水は、「第1の定義」で示されたような学問の自由の重要性を強調した上で、学問の自由についての「従来の理解」を再度定式化し、その上でそれとは異なる理解が行われている場合があると指摘します。このときに再定式化された定義は以下のようなものです。

今申し上げたように、従来はそして一般的には学問の自由というのは国家とか強力な宗教団体・経済団体、多数派の社会通念や経済的要請などなどの圧力を受けることなく、研究者の社会的通念、えーっとあの、手続きですね、研究の手続きに則って、真理を探究する自由を指すという風に理解されています。

 「今申し上げたように」と言いながら、ここでは第1の定義における「外部からの圧力」に該当するものがどのようなものか具体的に例示することで、定義の中により論争的な要素が付け加わっています。日本国憲法が公法の一種であり、国家による人権侵害を防ぐための規範であることを考えると、ここで国家以外による圧力が例示されていることは疑問視されるかもしれないからです。
 とはいえ、憲法における人権規定は、前憲法的な権利(道徳的権利)としての人権の存在を背景として作られたものであると考えられます。清水は、憲法23条が直接規定している「学問の自由」の内容ではなく、その背景にある道徳的権利の内容を説明しているのだと考えれば、この相違は重要なものではなくなります。また、法解釈の領域に絞っても、平が論じるように「憲法規定の私人間適用の問題」として処理することができるかもしれません。どちらにせよ、(明示せずに定義を変化させていることは問題視されうるにせよ)ここで追加された要素自体は大きな問題ではないと考えられます。

「学問の自由」の第3の定義

 ここまで、清水講演における「学問の自由」の2つの定義を見てきました。この2つを見ると、細かい点で憲法23条に対する従来の解釈との異同を指摘することはできるとしても、清水講演の趣旨に関わるような大きな欠点は見つけられないように思えます。
 ところが、清水はこの第2の定義を提示した直後に、学問の自由の目的を以下のように説明しなおしています。

その意味ではですね、学問という自由という枠組みは、力のある人たちとか、多数派にとって都合が悪い、あるいは利益にならないというだけの理由で研究教育を抑圧したり、不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。

 そして、彼女はこの目的に反する「学問の自由」への理解は「日本国憲法で保障される学問の自由とはかなりかけ離れたもの」であると主張することになります。清水は、講演のこれ以降の箇所でも、ポリティカル・コレクトネスやキャンセル・カルチャーに対する批判の内容を検討することなく、そこで使われている「学問の自由」の枠組みが「力のある人たち」ないし「多数派」を利するものになっているということを指摘することを繰り返すことで、それらの批判の不適切さを示そうとします。この目的に反する学問の自由は真の「学問の自由」でないというわけです。
 ここで提示されている「学問の自由という枠組みの目的」は、清水講演の中で事実上「学問の自由の定義」として扱われ、それに反するような「学問の自由」は尊重に値しないものだとされているように思えます。それにも関わらず、清水はこの定義を他の定義(しかも最初の定義の言い直しとして登場する定義)に対する補足として登場させます。聴衆が清水の講演を聞き、違和感を覚えて彼女の「学問の自由」への理解を思い出そうとするときに、思い当たるのは(極めて無難な)第1の定義でしょう。そうすると、聴衆は自らの感じた違和感を清水の定義に照らしてうまく表現することができなくなってしまいます。
 「学問の自由」を何度も再定式化し、少しずつ異論のありそうな内容を追加していく清水のレトリックは、見事ではありますが、極めて卑怯なものだと思います。

追記:これについては江口聡先生も同じようなことを書いていたようです。

第3の定義の問題点

 では、第3の定義にはどのような問題点があるでしょうか。以下の4つの問題点があるように思われます。
 第一に、論敵の議論の内容を検討せず、相手に「多数派」や「保守主義者」といったレッテルを貼るだけで相手の主張を否定できてしまうことが挙げられます。このことは、ミルが『自由論』で主張したような「誤った意見が存在することの価値」を失わせてしまいます。仮に全体として誤った意見であっても、一部には真理を含んでいるものですし、それの何が間違っているのかを考えることで得られる真理もあります。すでに多く指摘されているように、清水は表現の自由のごく基本的な価値を理解できていないのではないかと疑いたくなります。
 第二に、このようなレッテル貼りを行うことは、誹謗中傷につながりやすいと思われます。特定のフェミニストを「ターフ」(TERF、トランス排除的ラディカルフェミニスト)であると名指しすることで批判しようとする動きは、この例と言えるでしょう。私は個人的にトランス女性の権利拡大について肯定的な意見を持っていますが、それに否定的に見えるフェミニストに対して過激な誹謗中傷を加えることには賛成できません。明白な加害であり、不正だからです。
 第三に、誰が「多数派」であり誰が「少数派」であるかは、それほどはっきりとしていません。ある場面では少数派である人も、別の場面では多数派であるかもしれません。また、清水自身が講演の中で指摘しているように、実際には抑圧者である人が被抑圧者を自認したり、実際には被抑圧者である人々が抑圧者であるとみなされることもありえます。「多数派」や「少数派」という言葉は、法的・社会的権利としての学問の自由を定義するものとしてはあまりにも曖昧で、恣意的に使われる恐れがあります。
 最後に、学問の自由は法的・社会的な制度であって、その適用には一般性がなくてはいけません。多数派の言論も少数派の言論も平等に守られなくてはいけないのです。そうでなくては、制度の恣意的な運用によって特定の人々(多くは少数派)の権利が抑圧されかねないからです。

おわりに

 この記事では、清水晶子が講演の中で3つの「学問の自由」の定義を順に定義し、異論がありうる要素を付け加えていっていることを確認し、そのレトリックとしての問題性を指摘しました。その上で、第3の定義には、相手の議論を検討することなく批判を行うことを可能にしてしまうこと、誹謗中傷につながりやすいこと、あいまいであること、一般性を欠いていることの4つの問題点があると論じました。
 多数派による少数派の言論への弾圧は、確かに危惧されるべきものです。しかし、だからといって「学問の自由」の定義自体に「多数派」「少数派」といった要素を持ち込んでしまうことは、かえってそれを悪用して少数派を弾圧しようとする動きを加速させかねないと考えます。
 愚かに見える言論であっても、他者への誹謗中傷などの危害に当たらない限り、言論の自由の保護の対象となるべきです。そうでなくては、表現の萎縮効果を生んでしまいますし、何が愚かであるかを決める側が間違っていた場合に、正しい表現が弾圧される事態を生んでしまうからです。

補足:芦部による「学問の自由」の定義と呉座裁判

 この記事では清水の行った定義を検討することを通じて「学問の自由」について考えてきましたが、憲法学において「学問の自由」はどのように定義されているのでしょう。ここでは、有名な概説書である芦部信喜『憲法』(第7版、高橋和之補訂、2019)における説明を見てみましょう。
 憲法学者の芦部信喜は、「学問の自由」の内容を学問研究の自由・研究発表の自由・教授の自由の3つに分類した上で、憲法23条は「国家権力が、学問研究、研究発表、学説内容などの学問的活動とその成果について、それを弾圧し、あるいは禁止することは許されないこと」、「学問の自由の実質的な裏づけとして、教育機関において学問に従事する研究者に職務上の独立を認め、その身分を保障すること」の2つを意味しているとしています(pp.173-175)。
 2つ目の意味に関連して、清水が質疑応答の中で呉座勇一の裁判に関連して「労働争議」であるとした上で、それをもって学問の自由とは無関係であることになるかのように発言していることが気になります。憲法23条の保障内容が研究者の身分保障を含むとすれば、(呉座の事例がそれに当たるかは別として)ある争訟が「労働争議である」ことと「学問の自由と関係する」ことは対立しておらず、むしろ密接に関連していることになるはずです。清水が学問の自由を侵害しうる要因として「経済的要請」の圧力を挙げていることを考えると、この応答は非常に不可解です。「キャンセル」の結果として研究者が職を追われ、経済的困窮に陥ることの問題を清水は過小評価しているのではないかと疑いたくなります。



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