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親がいなくなったら

「土用の丑の日って噂通りだね、死ぬほど熱い」
鶏のマークが付いているTシャツを着た三十代みたいな男の子が文句ばかり言っていた。秀則は、頭を上げてその男子を見ると、知り合いと話している彼が秀則に気づき、視線を投げかけてきた。その結果、双方の眼差しがぶつかり合ってしまった。でもただ一瞬間の後、男子の注意はまた隣人同士に向けられた。それは虚しい目つきだったのだ。電車の中で一緒にいても人々がスマホを見たり、車内の広告を見つめたり、取っ手を掴んで目を閉じて何かを考えたりして自分だけの空間で振る舞っていると秀則は感じがした。降りるとき、その男子もほかの人も依然として知り合いと話したりスマホをいじったり、車内の広告を見つめたり、取っ手を掴んで目を閉じて何かを考えたりしていた。

中目黒駅から親のうちまでのは徒歩で五分ぐらいの距離。秀則は帰るたびに、橋の上にあるベンチに座って目黒川に目を凝らすことになっていた。花が咲きこぼれる季節はもう過ぎて、そこには蕾や、花など飾りがない枝しか残されていなかった。その光景は毎年必ずみえる。でも、それを見かける人が毎年同じではない。そっか、桜は、芽生えー開花ー結実ー枯死という決まった過程を繰り返すのに対して、人間は、生ー老ー病ー死という順序を繰り返すのだと秀則は鑑賞に浸りながら、掌をじっと見詰めていた。桜については、立ち枯れるまでにかかる時間が長すぎてずっと変わらないで生きているような錯覚が起こる。一方、人間は寿命が割に短くて衰えがはっきり感じ取れる。そう思うと、人生は短いものだと秀則はしみじみ感じながら、その場所から離れて親のうちに歩いて行った。

秀則の両親は桜が大好きだったし、秀則の住まいに近いところで暮らしたかったから、目黒川の近所に位置しているこの家に移住することに決めたのだった。ただし、秀則は毎月一回ぐらい訪れたから、毎回何となく持っていくのを忘れてしまって、両親がドアーを上げてもらうのを待っていた。「もしお母さんたちがいなかったらどうするの」って常に言われて、「わかっているよ、次は絶対持って来る」って秀則は何気なく答えて、次にも持ち忘れた。けれど、忘れっぽい秀則は今回鍵を持ってきた。ドアーの前に立ちながら、手をポケットに差し込んで鍵を握っていた秀則は急に鍵を手から離して「お母さん?ドアー、開けてくれて」と声を優しく出した。何かしら涙が溢れていた状態だった。

秀則は玄関で靴を脱いでいるとき、下駄箱の中に目をやると、靴は二足があった。深い紫色のつま先部分とベージュのアッパーの枠組みのフラットシューズと、ちょっとだけすり減った革靴が穏やかに置かれていた。秀則の母親はミニマリストを自任していて、必要なものしか買わなかった。だから、キッチンでも応接間でも寝室でも物が少なく、大抵小物入れや箱などに入れられていたのだ。また、母親は紫が気に入っていて、紫色のものが結構多かった。

ソファーのほうの壁に掛かったカレンダーも紫っぽい色をしていた。秀則はそのカレンダーにちょっとおかしいところを見つけた。ある日の数字が紫の円で囲まれていたのだ。今月も先月も先々月も。少し考えてみたが、意味がわからなかった。頭を振っていた秀則はのどが渇いたから何かを飲みにキッチンに行った。冷蔵庫にあまりものが入っていなかったが、一番上のトレーに置かれた七杯のファミリーマートのタピオカココナッツミルクが秀則の目についた。にこりと笑いながら、秀則は自宅の冷蔵庫にも置いてあるこの飲料を一杯取り出した。ちょっと古いソファーに座ってストローを深く挿してタピオカとミルクを吸い込んで相変わらず美味しかった、特にこんな高温的な日は、ソファーの前にあるブラウンの木でできたテーブルの上に一箱小物入れが置かれていた。中にはティッシュ1パックと白い瓶一本があったのだ。その白い瓶に入ったものは心臓病の発作が起きたときに飲まないといけない薬だったのだ。悔しい思いが秀則の心底から蘇った。もしどこへ行ってもこの薬を絶対に身につけてなきゃだめだよと言っていたら、こんな暑い日に母が買い物に行って心臓病が発作しても間に合ったんだろう。そしたら母も僕も辛く感じなくても済んだんだろうと。

タピオカを飲んだ後両親の寝室に入るが早いか淡いラベンダーみたいな匂いがしていた。それは秀則の母親の匂いだった。壁際にダブルベッドが窓に向かって朝になると日差しを浴びるように置かれていた。両親は「朝日は自然の目覚まし時計になるんだよ。最高だよ」とよく秀則に言っていた。暮れ方だったけど、電気をつけずに、ナイトテーブルの上にある枠にはめられた写真一枚を見ることができた。

四年ぐらい前、秀則が通勤しているとき階段から転んだ。左上の額にけがをして血が止まらなかった。秀則が入院したという情報が数日経たないうちに両親の耳に入った。「転んだだけだから、大丈夫。来てくれなくていいよ」と言っても両親はわがまま来てもらった。楽観的な父親は「馬鹿じゃないの?階段から転んだなんて」と冗談を口にしたり軽く頭を叩いたりしてにこにこしていた。母親は心配のあまり「何していんの、お父さん、そんなことしたら、ますますひどくなるでしょ」と父親を責めた。「大丈夫、大丈夫。だってうちの子だから。これもいい記念になるんじゃないか、一緒に写真を撮ろう」って父親が誘った。結局、ガーゼで頭を包んでいる僕、微笑むふりをしている母親と笑っている父親という写真が撮られたのだ。

五年前こんな父親が癌にかかった。父親は三年の間、体を引き裂かれんばかりの苦痛に耐えた後、とうとう逝ってしまった。だが、この間父親はいつも通り、精いっぱいの笑顔を見せてもらった。その笑顔の中に父の中に根ざした力が強く感じられた。部屋の中が全然見えなくなるほど暗くなってから、秀則は靴を履いて自宅に帰った。門を閉じようとしたとき携帯が震えた。YAHOOのニュースだったのだ。秀則は何気に日時を見ると、何となくどこかで見た感じがした。壁に掛かっていたカレンダーを一瞥すると、秀則は鱗が目から落ちるようにわかったのだ。

家を出てから秀則は目黒川に沿って歩いた。暗かったが、周りはまだみえた。人々はベンチに座ったり、散歩したりしていた。秀則が通り掛かっても、彼らはベンチに座ったり、散歩したりしていたのだ。

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