スタンリー・カヴェル「言うことは意味することでなければならないか」/伊藤迅亮(訳)【フィルカルVol.9,No.1より】
本稿は、次の論文の前半部の訳である(後半部の訳はVol. 9, No. 3 に掲載予定)。
Stanley Cavell, “Must We Mean What We Say?” Inquiry: An Interdisciplinary Journal of Philosophy, Vol. 1, No. 3 (1958), pp. 172–212.
邦訳にあたってはこの初版を底本としつつ、次の論文集に収録されている最新版(2015年版と呼ぶ)も参照した。
Stanley Cavell, Must We Mean What We Say?: A Book of Essays, upd. ed. (Cambridge: Cambridge University Press, 2015).
2015年版での明らかな誤字・脱字の修正は断りなく取り入れ、それ以外の修正については都度訳注で言及した。
また、参考文献は基本的には2015年版に従って記したが、例外は訳注で指摘した。
言うことは意味することでなければならないか*
1 導入―日常言語を起点とする哲学
私たちが日常的に言う・意味することは、私たちが哲学的に言える・意味できることを直接的かつ根底的に支配しうる―この考えを抑圧的だと感じる哲学者は多くいる。
その抑圧感の一因は誤解にあると言われるかもしれない。
すなわち、日常言語を起点とする(proceeds from)新しい哲学は、伝統的な方法でなされる哲学的考察とはそれほど異なっておらず、新しい哲学への度重なる攻撃は的外れなのだ、と。
しかし、私はそのように穏便に済まそうとは思わない。
なぜなら、思うにオックスフォードの新しい哲学は伝統的な哲学と決定的に異なっているし、その上、思うに両者の違いを可能な限り十全に明るみに出そうとすることには価値があるからだ。
そもそも、〔オックスフォードの新しい哲学以外の〕ある種の哲学にも、私たちの極めて個人的な哲学的想定(例えば、外的世界や他者の心の存在を確実に知ることは果たしてできるのかについての想定や、「記述的なものと規範的なもの」との、ないし事実の問題と言葉の問題とのお気に入りの区別について抱く想定)について不気味な情報を持つように思われる点で、そしてそれらの想定について絶えず私たちを悩ませるという点で、どこか抑圧的なところがあるのだ。
そうした哲学は、ただ単に何度も悩みの種になって私たちに取り憑く疑問に特別な答えを何ら与えようともしないように思われるときには―部屋で静かに座っているように提案してくるのでもない限り―いっそう抑圧的である。
そこで結局は、私たちはそうした抑圧の感覚そのものに目を向けなければならなくなるだろうと思う。
そのような感じ方(フィーリング)は、私たちが目を背けている私たち自身のとある真理から生じうるのである。
ここでの私の希望はささやかなものである。
私の見るところでは、メイツ教授が自身の挙げるオックスフォードの哲学者たちに差し向ける議論には、彼らの主たる関心とは概して関係のないものもあるわけだが、これがどうしてなのかを述べたい。
そしてそのためには、哲学的考察をする際に、私たちが日常的に言う・意味することを起点とする意義とは何かについて、私の考えを述べる必要があるだろう。
これは、瑣末に見えたり独断的に見えたりせずにできるような容易なことではあるまい。
こうした哲学の進め方とメイツが従っていると思われる進め方との対立の深さを、そして両者の進め方の近さを考えてみれば、そのことは当然かもしれない。
両者の哲学のやり方は、あたかも仲違いした友人のように、互いを許すことも無視することもできないようである。
私は、人が必ずや知っているであろうことを幾度となく述べるが、それは瑣末に見えるだろう。
私はまた、私たちが知っていることの一部は過度に強調されており、その他の部分は十分真剣には捉えられていないことを示すが、それは独断的に見えるだろう。
しかし、私はこの対話に専念しているのだから、見てくれを気にするのはもうお終いだ。
2 日常言語に関する証拠の源としての母語話者
メイツ教授の関心は、オックスフォードの哲学者たちの特定の成果に異議を唱えることよりも、これらの哲学者たちがその成果を主張する際に踏んだ手続きに疑問を呈することにある。
特に彼は、「日常言語についての言明」を述べる際に要求される類の証拠(エビデンス)を彼らは集めてきていないと考えているのだ。
メイツは懐疑の根拠として、日常言語のとある表現の解釈をめぐる、この学派の2人の主要人物〔J・L・オースティン(J. L. Austin)とG・ライル(G. Ryle)〕の見解の相違を提示する―その相違は彼らの方法の浅薄さを表しているとメイツは見なしているのだ。
メイツの説明によれば、その対立は、いくら議論を重ねても無事に決着がつきそうなものではない。
つまりここでは、二人の(偶然にも哲学の)教授が各々、自らの話し方が正しい話し方なのであり、自らの言語についての直観が言語についての真理を捉えていると論じている(いやむしろ言い張っている)というのだ。
しかし、もし彼らの主張がこうしたものに過ぎないのであれば、彼らの主張を支持する証拠を集めようとすることには、哲学者が時間を費やす甲斐がほとんどないように思われる。
オースティンとライルが日常言語について述べる言明を三つのタイプに区別することで、彼らの相違を評価することができる。
ある言語において何が言われるか(what is said)の事例(instances)を提示する言明がある。
(「私たちは、……とは言うが、〜とは言わない」、「私たちは……かどうかとは尋ねるが、〜かどうかとは尋ねない」)。これらの事例は、解明(explications)を伴うことがある。解明とは、第一のタイプの言明が私たちが言うこととして例示することを私たちが言うときに、含意されていることを明らかにする言明である。
(「私たちは、……と言うとき、〜を含意する(示唆する、言う)」、「私たちは、〜を意味するのでない限り、……とは言わない」)。
そのような言明は、第一のタイプの言明を参照することによって確認(チェック)される。最後に、一般化(generalizations)があり、これははじめの二つのタイプの言明を参照することによってテストされる。
さしあたり一般化のテストに関して特別な問題はないため、主としてはじめの二つのタイプの言明の正当化について、そしてとりわけ第二のタイプの言明の正当化について、取り上げることとしよう。
これらの違いをより厳密にしようとせずとも、ライルとオースティンの衝突の本性はいくらか明白になる。
まず初めに、メイツがオースティンから引用する次の言明は第一のタイプに属することに注意されたい。
「「意志によって(voluntarily)」〔…〕を例に取ろう。私たちは自らの意志によって〔…〕贈り物をする」[1]―私はこれを「「その贈り物はその人の意志によってなされた」と私たちは言う」の実質話法(material mode)[2]だと考える。
(この「話法」の移行の重要性についてはのちに議論しよう[3]。
)メイツがライルから引用する多くの言明のうち、このタイプに属するのは次の一つだけである。
「ある少年が窓を割ったことに責任があるかどうかを尋ねることは意味をなすが、早めに宿題を終わらせたことに責任があるかどうかを尋ねることは意味をなさない」[4]。
オースティンの言明と衝突するライルの次の言明は〔第一のタイプとは〕異なるものだ。
「「意志による」と「意志によらない」は、〔…〕その最も日常的な使用においては、すべきでない行為に適用される形容詞として用いられる。
その行為がその人の落ち度であったと思われるときに限って、私たちは誰かの行為が意志によったか否かを問題とするのである〔…〕」[5]。
これらの言明は、私たちが言うことの事例[6]を提示するものではない(「「その少年は窓を割ったことに責任があった」と私たちは言う」は提示するが)。
そうではなく、それらは―「〔すべきでない〕行為」と「ときに限って」という表現が示すように―一般化であり、上述の事例を提示することによってテストされるものである。
確かに、オースティンから引用された事例はライルの一般化に反している。
贈り物をすることは必ずしもすべきでないことではないし、決まって誰かの落ち度であるようなことでもない。
ここには明らかに衝突がある。
しかし、聞き取り調査をすることだけが、この段階における賢い方策なのだろうか[7]? ライルはこの点に関して間違っており、彼は明らかな反例が提示されてきた一般化に行き着いたのだと片付けてしまうのは、独断的ないし非経験主義的ではないだろうか? それどころか、オースティンの言う事例は、ライル自身が一般化に対する反例として認めると十分予想されるものであるし、実際、彼が自ら提示したかもしれないものである。
ライルはそうした事例を提示しなかったが、それが示すに違いないのは、ただ彼が一般化を受け入れるにはあまりに性急であったことだけであり、彼が一般化を支持する(よい)証拠を持ち合わせていないことではない。
ライルに対するメイツの反論の一つは次のように言い表すことができる。
すなわち、ライルは証拠を―何にせよとてもよい証拠を―持ち合わせていない。
なぜなら彼は、当の言語におけるその語の生起を実証する経験的な研究をしておらず、(私たちが言うことの事例を提供するものである)第一のタイプの言明を述べる資格を有していないからである。
この反論が、メイツが力説しているような一般的な意味でとった場合には根拠のないものであることに気づくためには、これらの〔第一のタイプの〕言明―あることが日本語で言われるという言明―が日本語を母語とする話者によってなされていることを心に留めておかなければならない。
そのような話者は一般に、その言語において何が言われるかについての証拠を必要としない。
むしろ、母語話者こそがそのような証拠の源なのである。
記述的な言語学者が言語の文法を構築する上で基礎に据える発話のコーパスは、他でもない母語話者から採取されるのだ。
もちろん、ある種の問いに答えるためには、メイツが要求する「骨の折れる調査」〔(p. 165)[8]〕に取り組み、勘定をしなければならないだろう。
しかし一般に、何が日本語であって何がそうでないかを判断するのに、言われることが適切に使用されているかどうかを判断するのに、母語話者は自らの勘を頼りにすることができるのだ。
そうでなければ、勘定すべきことなど何もなくなってしまうだろう。
一人の話者があらゆることを言うということはないため、他者を尋ね求めるのは有益なことかもしれない。
それから、ある発話形式が、自分の言う通りのものであるのか、自分が言う通りに使われているのか(母語話者として)確信が持てない場合があるかもしれないが、そのような場合には、他の母語話者に確認してみなければならないだろう。
加えて、自らが言うことに抜かりなく注意を払うことによって、却って普段より頻繁に確信が持てなくなるかもしれないため、より頻繁に確認するのはよい方針である。
〔ただし、それはあくまで〕よい方針の一つであって、方法論的に必要不可欠なことではない。
データ収集において自らを被験者として用いる際に、日常言語を起点とする哲学者〔のやり方〕は(母語話者としての自身の話し言葉から採った例を用いる言語理論家ほどではないが)記述的言語学者よりも砕けている(インフォーマル)かもしれない。
しかし、だからといってそのデータが何らかの一般的な仕方で疑わしくなるわけでは決してないのである。
このこと〔母語話者はその言語において何が言われるかを判断できるということ〕は、メイツが極めて問題含みだと考えている「直観や記憶」へ依拠すること(p. 165)を意味するわけでもない。
ある表現を使うか否かを一般に知っていると主張する際、私は、私たちが言うことについて間違いのない記憶を有していると主張しているのではないのだ。
それは、毎週日曜日は何時に夕食を食べるのかを伝える際に、その時間を記憶していると主張しているのではないのと同じである。
通常の人は、母語の特定の言葉やその言葉の意味するところを忘れたり記憶したりすることはあるものの、(その言語を継続的に使ってきたのだと仮定すると)その言語を記憶したりはしない。
ある言語を母語として話す人とその言語に精通している〔非母語話者の〕人との間には、雲泥の差があるのだ。
仮に私がミュンヘンに住んでおり、ドイツ語に精通しているならば、ある特定の事象がドイツ語では何と表現されるのかを直観ないし推測しようとするかもしれない。
あるいは大家に尋ねるかもしれない。
その問題が要求する骨の折れる調査とは、おそらくこの程度である。
さらにまた、私の区別したいかなる類の言明であれ、日常言語についての言明を述べることは、「[私たちは]すでに母語の使用について〔…〕凄まじく多くの経験的情報を蓄えてきた」(Mates, ibid.)という主張に依拠するわけでもない。
その主張は次のような場合には正しいだろう。
言語の歴史や言語の音声体系、主婦は政治的スローガンをどう理解しているか、ある方言の形態論における特殊な語形、といったことに関する言明を述べる場合には。
しかし、母語話者が通常の状況においていかなるときに何が言われるのかを述べるためには、そのような特別な情報は一切必要でないし要求もされない。
必要なのは、自然言語とはその言語の母語話者が話すものであるという命題が真であることだけである。
3 ライルの洞察の正しさと間違い――衝突の再考
(続きは最新号でお読みいただけます)
注
*〔原注〕本論文は、メイツ(B. Mates)の論文の最初の注で言及されているシンポジウム〔1957年12月19日に開催されたアメリカ哲学会太平洋沿岸部会のシンポジウム〕の一部として読み上げられた論文を、後に大幅に加筆したものである。本論文の主要な部分を執筆してから、私が取り扱っているのと似た主張ないし議論をしている論文を三本見かけた。R. M. Hare, “Are Discoveries About the Uses of Words Empirical?” Journal of Philosophy, Vol. LIV (1957); G. E. M. Anscombe, “On Brute Facts,” Analysis, Vol. XVIII (1957–58)〔「生の事実について」, 『インテンション―行為と実践知の哲学』柏端達也(訳)(岩波書店, 2022), 249–60〕; S. Hampshire and H. L. A. Hart, “Decision, Intention and Certainty,” Mind, Vol. LXVII (1958). 私が論ずることとの関連性はそれらの論文の読者にとって明らかだろうが、しかし、その関連性をより詳細に明らかにしようとしたならば、既にして長大な論文がさらに長大なものとなってしまっただろう。
[1] 〔訳注〕J. L. Austin, “A Plea for Excuses,” in Philosophical Papers, 3rd. ed., J. O. Urmson and G. J. Warnock, ed. (Oxford: Oxford University Press, 1979), p. 191. 〔「弁解の弁」服部裕幸(訳), 『オースティン哲学論文集』 坂本百大(訳)(勁草書房, 1991), 305頁.〕カヴェルの「弁解の弁」からの引用・参照は、1961年の論文集(第1版)からであったり、注9のV・C・チャペル編集の論文集からであったりと、統一されていない。
本稿では、「弁解の弁」については、この注に記した論文集(第3版)から引用・参照する。
[2] 〔訳注〕形式話法/実質話法の対比が念頭に置かれている。
形式話法は言語ないし記号についての語り方であるのに対して、実質話法は対象ないし世界についての語り方である。
[3] 〔訳注〕第7節の第2段落以降で論じられる。
[4] 〔訳注〕G. Ryle, The Concept of Mind, 60th anniv. ed. (Oxon: Routledge, 2009), p. 56. 〔『心の概念』 坂本百大・井上治子・服部裕幸(訳)(みすず書房, 1987), 90頁.〕本稿では、『心の概念』については、この注で記した版から引用・参照する。
[5] 〔訳注〕Ibid.
[6] 〔訳注〕2015年版では、「事例」のイタリックはなくなっている。
[7] 〔訳注〕調査をすべき段階については、第10節の第3段落を参照せよ。
[8] 〔訳注〕カヴェルが取り上げるメイツの論文(注1を参照)のページ数は、初版では Benson Mates, “On the Verification of Statements about Ordinary Language,” Inquiry: An Interdisciplinary Journal of Philosophy, Vol. 1, No. 3 (1958), pp. 161–71 が、2015年版ではV. C. Chappell, ed., Ordinary Language: Essays in Philosophical Method (Englewood Cliffs, New Jersey: Prentice-Hall, Inc., 1964) が参照されている。
後者は入手困難のため、本稿では初版に倣って前者のページ数を参照する。
凡例
山括弧 〈 〉 は、文の構造や意味をわかりやすくするために訳者が付したものである。
亀甲括弧 〔 〕 は、訳者による補足である。
角括弧 [ ] は、原著者による補足である。
訳者プロフィール
伊藤迅亮 Shinnosuke Ito
1999年生まれ。2024年3月に京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程を修了。同年4月より広告代理店に勤務。専門は、分析哲学/分析美学。現在の関心は、真正性(本物であるとはどのようなことか)と、オースティンや後期ウィトゲンシュタインに代表される日常言語哲学的なスタイルの擁護にあります。修士論文として、「「本物」の日常言語哲学——ズボン語とは何だったのか」(京都大学、2024年)。
https://researchmap.jp/itoshinnosuke
note掲載にあたり必要最低限の編集を行いました。(フィルカル編集部)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?