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現代バラード概論 第一回 恐怖と狂気

JGバラードの世界観を基に、今後のSFの在り方、作り手/読み手の在り方を考察しようという現代バラード概論のコーナー。大いなるバラードの世界の片鱗に触れていただけたら幸いです。


『クラッシュ』は、「極端な状況における極端なメタファー、極端な危機の折にのみ利用される自暴自棄な手引書なのだ。」

JGバラードは『クラッシュ』の序文でこう記している。『クラッシュ』では、主人公のバラードが、交通事故を起こした後、自動車事故に倒錯した性的快楽を見出す男ヴォーンにつきまとわれる。バラードはヴォーンの倒錯的な欲求を満たす行為に付き合ううちに、自分自身も同様の欲望を抱くようになっていく。

この小説で登場人物たちは、交通事故という命を奪いかねない行為に幾度となく立ち会い、再現を試みて怪我人まで出しておきながら、自分たちの行為に対して全くと言っていいほど恐れを抱いていない。このことは、『クラッシュ』のみならず、他の代表的なバラード作品の多くに当てはまる。以下幾つか例を挙げてみたい。

『楽園への疾走』では、タヒチ沖に浮かぶサン・エスプリ島のアホウドリを保護すべく、核実験の中止を求めて島を不法占拠する、という環境保護活動家たちの姿が描かれる。しかし、当初普通の環境運動だった島内での生活は、次第に環境保護を逸脱し、運動のリーダーたる女性、ドクター・バーバラを中心とする過激なフェミニストたちによる支配に変貌してしまう。主人公の少年ニール・デンプシーは終いには追い詰められ、殺されそうになり、彼女らから追われることとなるが、彼は最後まで、ドクター・バーバラに対して抱いていた狂信を捨てず、死への恐れが彼の心を占めることはなかった。

『ハイ・ライズ』では、ロンドン中心部の40階建ての巨大住宅――10階までの下層部、35階までの中層部、その上の上層部に階層化している――を舞台に、階級闘争が展開される。過酷な環境での落命もあり得る闘争の中で、死を恐れる人々の姿は見られず、むしろ人々は狂気にかられ、闘争に自ら積極的に参画していく。

『終着の浜辺』の表題作「終着の浜辺」では、米軍によって核実験に使用された後、放棄されたエニウェトック環礁にたどり着いた男、トレーブンが、環礁内をいつまでも徘徊し、脱出に成功するどころか、次第に脱出しようともしなくなる様子が描かれている。太平洋上に浮かぶ終末を体現するような島を抜け出せないという絶望的状況に置かれているにもかかわらず、トレーブンに恐れは見られず、彼が「過去へ帰還し」た姿、「いや少なくとも非時間の地帯に入って」いる姿が延々描かれている。

以上の作品に共通する、異常事態下における人々の恐怖の不在は何によって可能となるのか。その答えは狂気だ。上の例を見れば明らかなように、その狂気は複数の作品にわたって反復されている。

では何故、バラードは複数の作品にわたって、恐怖の不在を、狂気の存在を反復するのか。答えは本文冒頭にあるように、我々が「極端な状況」、「極端な危機」に瀕しているからに他ならない。「極端な状況」、「極端な危機」を描写し、警告するにあたって、狂気こそが優れた方法であり、時として恐怖は狂気に劣るどころか、かえって事態を悪化させる。

狂気の優位性、恐怖の劣位性は一旦横に置いておくとして、「極端な状況」、「極端な危機」とは一体何なのだろうか。テクノロジーが我々にとって様々な危険をもたらす時を、『クラッシュ』の序文における「危機」と定義するなら、その危険に対して恐怖を広く人々が共有しているうちは、「極端な状況」は成立しない。「極端な危機」とは、むしろ人々の間に、危険に対する恐怖が喪失した時に成立するものだ。

何故なら、広く人々が恐怖を共有しているうちは、危険に対する批判は広く共有されるからだ。多くの人々から恐怖が失われたとき、危険に対する批判――SFに限らず、危険に対する批判一般を指す――は人々の同意を得られなくなる。人々の危険に対する感覚は麻痺してしまっていて、彼らは危険を感じられない。感じられないものへの批判は存在しないも同然で、彼らによる圧殺を免れることはできないのだ。

時折、テレビを流れる交通事故の報道を思い出すがいい。我々は「それら」をどのように扱うだろうか。大半の人々は、花火大会のニュースと同じぐらいの日々を彩る装飾ぐらいにしか思っていない。被害者団体の代表の口から発せられる言葉に、共感を覚えられるだろうか。残念ながら我々は彼ら彼女らの言葉を、ごく身近な人が重大な事故にあうまで、場合によってはごく身近な人が死んでも尚、理解することはないだろう。また多くの人々にとって彼ら彼女らはどこか遠い存在として、彼ら彼女らの発言はどこか現実味を欠いたものとして、無意識のうちに圧殺される。

バラードが『クラッシュ』で言う危機とは、目の前に迫った危険を危険と感じ取れなくなり、むしろ社会的な必要性から肯定する態度をとる人間が充溢すること。更には、日常的な危険を危険と認定できる人とできない人との間に断絶が生まれる状況を指す。

このバラードの「危機意識」は、核兵器や核戦争に対する冷戦下の人々の態度にも代入することができる。

ネビル・シュートは『渚にて』において、核戦争による人類の終末を描いている。冷戦下においては、キューバ危機に代表されるように、人類が米ソの核戦争によって破滅するというシナリオは現実味のあるものだった。そのような結末を防止すべく、核の脅威――核戦争による終末を描き、訴えかけることには一定の価値がある。

しかし、これはバラード的な「危機意識」から見たとき、ある種の見落としを含んでいる世界だといえる。それは、核戦争という危険が認知されるとき、そこには必ず、核戦争による終末を危険とは捉えていない、むしろ条件付きではあれ肯定的にとらえている人々が存在するということである。もし、全人類が核兵器廃絶を望んでいるのなら、原理的に核戦争は起こり得ないはずであり、それを危険と捉える必要もない。

ここで何故、「極端な状況」、「極端な危機」を描写し、警告するにあたって、狂気こそが優れた方法であり、時として恐怖は狂気に劣るどころか、かえって事態を悪化させるのか、という疑問に立ち返りたい。

この疑問に対する答えは端的に言えば、「恐怖は狂気に回収され、時として狂気を強める恐れがあるから」だ。

「かつてアイゼンハワーは、イギリス大使に対して、『共産主義者にされるくらいなら、原子爆弾で殺された方がましだ』と語ったことがある」(『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史2 ケネディと世界存亡の危機』早川書房)

この言葉は冷戦下の核戦争の狂気を代表する言葉だろう。対立陣営を何としてでも滅亡させるべきだという狂気といえるイデオロギーは、核戦争による人類の滅亡という恐怖に晒されたとき、両者を秤にかけることで、狂気にとらわれた人間の中で、「人類の存続よりも重要」な位置へと押し上げられたのだ。そして、核兵器に反対を訴える人々と対立陣営の滅亡を訴える人々との間には、テレビの前の我々とテレビの向こうの被害者たちとの間に介在するのと同種の分断が横たわる。

このような分断を伴うバラードの「危機」を理解したとき、『クラッシュ』が交通事故に快楽を見出す人々を描くことの意味が少しずつ明らかになってくる。『クラッシュ』の登場人物であるヴォーンやバラードは、核戦争に捕らわれた狂人たちよろしく自らの命よりも交通事故による快楽を優先し、日々自らの死の予行演習を行う意味が。つまり、彼らは単に交通事故に快楽を見出す人々ではなく、自動車事故による死に対する恐れを抜かれた我々自身の極端な姿なのだ。

彼らの極端な姿と自らとが対比されるとき、はじめて我々は我々が身にまとっている狂気を、確実に知覚できるのだ。

恐怖を描写することは、我々が直面する「危機」に対してあまり大きな意味をなさない。なぜなら、描かれる恐怖に読者が同意できる場合、読者は恐怖をもたらすテクノロジーに対して、批判性を維持しており、記述による力を借りずとも行動を起こすことができるからだ。対して、恐怖に同意できない場合は、批判性を持っていない場合は、人々の行動を促すのにそのような記述は無意味だ。読者はそのような恐怖を理解できず、記述と読者は交わることなく、仲違いに終わる。

 我々が直面する「危機」に我々が批判性を持っていないときにこそ、狂気に関する記述はその効力を発揮する。すなわち、現在または近未来の日常に潜む狂気についての描写は、いかに自分たちが恐ろしい行動を平然とこなしているのかを、狂気を無意識的に抑圧しているのかを我々に提示し、我々が世界観を共有することが可能となるのだ。

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