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崖を上ってきたかのような

(この記事は「自分語りをしてみよう」の会です、というマガジンの五本目、五回目だ。三日坊主で風呂敷をたくさん広げる、というかたくさんの風呂敷を用もないのに畳の上に広げまくって散らかす僕にしてはよく続いた方だなと。あとどのくらいの回数、どれくらいの頻度で続くか自分自身見物だと思っている。)

前回の「娘であり女でないということ」では議論が乱暴すぎたと反省している。とりわけ母のことについては。勿論、きちんと思うところがあって批判している部分もあるのだが、それを他人に伝える上では二つの点で配慮に欠けていたと思う(前回のことなどどうでもいいという諸氏は次の見出しまで読み飛ばしていただきたい)。

一つ目は、前回の記事には自分の加害性に関する記述がなかった点だ。母と僕との関係性は、一方的に母に僕が虐げられるという単純なものではなかった。僕は母の被害者であると同時に母への加害者でもあった。例えば性別役割分担に乗っかって、僕は母に家事負担の大部分を押し付けていた。ある時期からは思うところがあってできることは自分でやるようになったが、それでも押し付けは厳然としてあった。

二つ目は、加害性に関する記述がないことによって事態を必要以上に単純に見えるようにしてしまった点だ。繰り返しになるが、僕と母との関係は、父が母を抑圧し、母が息子たちを抑圧するだけという単純な構図ではない。僕は自分が身体的に男性であることを用いて、母への加害者としても振る舞っていた。僕の苦痛の原因はこうした僕と母との複雑な関係、ねじれた関係(母を抑圧し、母に抑圧される自分)にあったにも関わらず、前回の記事からは、僕が抑圧されたことが苦痛の原因のように受け取れてしまう。そうではないのだ。一方的に抑圧されているだけなら「僕の生活は母に台無しにされた!」と言ってさえいればいい。それで憂さも晴れるというものだ。しかし自ら母を抑圧しつつ、母の抑圧を否定しようとする場合、自分の加害性ゆえに、その批判はどこか片手落ち、欠陥品とならざるを得ない。「傷つけられたって騒いでるけど、お前も母を傷つけてるよね」と横槍を入れてくる声と絶えず戦わねばならないのだ。

次から気をつけるなどと言う気はない。苦痛に耐えながら自分と向き合っているのだから、誰しも間違いはあるものだ。気づいたら修正する、というスタイルでいくし、さかのぼって前回以前の記事の本文に大幅に手を入れる気はない。日記のように激闘の記録を残すことに意義があると思っている。

啓蒙と恋愛感情と

さて、今回は自分が好きな人、好きな関係性について記そうかと思う。なんだか今までのテーマの再放送だなと思われるかもしれないが、日記のようなこのマガジンは再放送の繰り返しだと考えている。僕は日記をつけるとき、えてして同じテーマについて何度も考えることになる。二年前と二か月前の日記を見比べたら同じテーマを考えていて、二年前の分析の方が切り口が斬新だったり、二か月前の分析の方が洗練されていたり、二年前と二か月前の分析が真逆であったりする。そういう差異が面白いのだ。

好きな人、好きな関係性を記すにあたり「啓蒙」について考えたい。「小難しい話をしやがって」と思う人も「啓蒙についてそんな薄っぺらい話しかできないのか」と思う人もあろうが、しばし我慢してもらえるとこちらは助かる。(以下、大雑把な議論を展開することにする)

「啓蒙(enlightenment)」とはどのようなことを意味するのだろうか。高校の時に習った定義を思い出して天下り的に用いれば、蒙を啓く(もうをひらく)こと、理性の力で暗闇に光を与えること(enlightenmentの字義通り)といったところだろうか。野蛮なものを理性の力で教え導くといった類の説明を受けた。「西欧が野蛮・未開なアフリカやアジアの人々を教え導く」という形で、啓蒙は多分に権力構造を含みこんでおり、専ら植民地主義・コロニアリズムの文脈で用いられていた覚えがある。愚かな人間に合理性というものを教えてあげますよ、というわけだ。国内的には、学のない庶民・大衆はインテリ教養層の言うことを黙って聞いていなさい、という上からの改革と結びつく。

当然というべきか、僕は啓蒙に対して良いイメージは持たなかったので、その分、啓蒙のもう一つの側面に触れた時の新鮮さは際立った。啓蒙には単なる抽象的な学問と、実際の生活での経験とを結びつけ、生のありかたを改良する手段としての側面もあるのだ。その場合、インテリ教養層であろうが、労働者であろうが、自らの属する社会集団の枠を超えて、互いを刺激しあい、互いの生をより良い方向へと導くことができる。(例えば小池2013参照)

「啓蒙」と好きな人、好きな関係性になんのつながりがあるのかさっぱりわからないかもしれないところで恐縮だが、僕は「関係性の在り方そのものが啓蒙的である」ような人との関係性が好きだし、そういう人が好きだ。言い換えれば、関係性自体の中に生の改良のきっかけが含みこまれている関係性が好きだ。

誤解の無いように言っておくと、これは特定の分野の知識が豊富な人と出会って言葉を交わし、優秀さに感服し、学習意欲が湧くといった類のものではない。数学について研究している人とか政治学について研究している人とかの話を聞いて興味深い、刺激的だなどという話ではない。また芸術家の作品から何らかの着想を得るというのも違う。相手が話を聞くのが上手で、もっと話していたいとか、居心地がいいとかいったものでもない。

そうではなく、その人との付き合うことによって自分の価値観が揺さぶられ、刺激が得られる、かつそうした刺激がその人と付き合う上で必要に迫られて起きる、そんな刺激を持った人だ。相手がどれだけプログラミングの技術が高かろうが、どれだけ服飾に詳しかろうが、プログラミングや服飾の話をして楽しいということではない。勿論、刺激の内容物は、そうした一種職業的な背景に支えられているものの、知識・技能そのものではないのだ。自分の価値観を揺さぶるような価値観をもって生活していて、実際に自分を揺さぶるような関係性を自分と取り結ぼうとする人だ。

そんな人いるのかね、と疑問に思われるところだが、僕が仲良くしてきた人はそういう人たちだったし、人に恋愛感情を抱くための必要条件なのではないかと思い始めた。反対に関係性が啓蒙的でない段階で、いくら好意を向けられても、恋愛感情はおろか、ただの知り合いぐらいにしか思えないということを昨年の夏に嫌というほど思い知らされた。

関係性そのものが啓蒙的だったある人のおかげで、僕は、例えば「恋人」という言葉や「付き合っている/いない」という二分法を疑ってみることができた。「恋人がトップで、友達より優先されるのっておかしくない?彼氏が一番大事って言って友人を振り回している人がいるのを見て、馬鹿だなあと前から思ってたよ」というその人の発言は今でも記憶に残っている。もっともその人と頻繁に会っていた当時は、その考えをすぐに受け入れることができなかった。

彼女がこの発言を繰り出す前節がある。僕と別れる前に他の男性と「付き合いだし」、それを理由に僕と「別れたい」と言い出した。話ぐらいはしたいなと思い、会って事情をきき「僕にしたのと同じこと、他の人にしないようにね。自分が同じことされる側になるよ」と偉そうに説教めいた話を淡々として帰ってきた。恋愛体質の僕は激怒すると踏んでいた彼女にとってはこの反応は驚きだったらしく「その後も仲良くしたいと思っている」と言われたし、二週間後にはお茶に呼ばれ、彼氏との関係性で悩んでいると相談された。彼女の意図がわからなかったし、わざわざ他人と付き合っている話をされることによる嫉妬もあった。

しかし二年もすれば嫉妬も殊更感じることもなくなったし、彼女の発言の意味もわかってきた。「恋人」が一人である必要はないし、一人である場合でも、他の友人より優先する必要はない。どこでどんな関係性を持っていようが僕の自由であって、「恋人」であろうとなかろうと、僕の関係性にあれこれ指図される筋合いはないのだと思っている(また相手の自由を尊重し、指図することがないようにせねばとも思っている)。一方で好意を持ってくれている人には、自分がどういう生活を送っていて、今後どう生きたいのか話す必要があると思っている。例えば「『恋人』でない異性ともデートするし、『恋人』になったからといって、あるいは体の関係を持ったからといって、特別扱いする気はありませんよ」、「『恋人』をあなた一人だけに限定する気もありませんよ」という意思表示をしなければならないと思っている。何よりトラブルの元だからだ。

確かに「そうした意思表示を行わないのは詐欺だから」という理由付けも成り立つだろうが、僕はそういう立場は好きじゃない。「詐欺だから」という理由は、例えば一対一の異性間でしか恋愛感情を抱かないという規範的な振る舞いを暗に「詐欺でない」態度として自明視しているように見えるからだ。本人が自分の欲求のままに生きていて騙す気がないなら、いくら価値観が違っても詐欺ではない。

どのような生き方をするにせよ、強い結びつきを伴う間柄の人には、ある程度生き方を言葉を用いて明らかにすることが必要になってくると思うのだ。お互いが(あるいはある関係を結んでいる全員が)規範的な振る舞いをしているときは、そうした明言をしなくてもうまく回る。というか規範的な振る舞いをするということは(規範的の内容の確定はここでは面倒なのでしないが)、そうした明言や問や疑いを無化するものでもあるのだ。それゆえ、規範的に振る舞う時は、本来必要な作業をさぼって、ある種楽をすることができているだけだとそう感じている。

もっともそう感じない人がたくさんいるのも知っている。この記事の中身は僕がどうしたいかという話なので、お気になさらず。「一家の大黒柱」とか「専業主夫/婦」とかを演じたい人を引き留めはしない。ただ自分のやっていることを僕に押し付けないで欲しいものだな。

横道に逸れた話を本筋に戻そう。ではなぜ上記のような「啓蒙」的な関係性にある人が好きなのか。端的に言えば、居心地がいいからなのだろうが、実のところ、そういう関係性の中にしか居場所が無いぐらい追い詰められているからだともいえる。規範的な役割を背負い込んだ両親に、色々な役割を押し付けられたという記憶は、同居しなくなって間もなく一年になろうかというのにいまだ鮮明に残っている。自分と相手との関係性について考えていなければ、自分自身が両親と同じ側の人間になってしまうのではないかという強迫観念から逃れることができない。

また新たにあった発見としては、(「女」ではないが)母にとっての「娘」のポジションにいる自分が、考えることを放棄するのは、自分の身を危険にさらすことにもなるということだった。つい先日、男性一人と女性一人と三人で居酒屋で飲んでいた。僕は二人のことはそれぞれ別個に知っていたが、三人揃って顔を合わせるのは初めてだった。女性の方とは互いにボディタッチをしながら飲んでいたのを覚えている。話を聞くに、どうも二人は性的関係を持っているらしく、男性に「付き合い」出しそうな女の人がいることを指して、女性の方が嫉妬を感じていることを表明していた。別に嫉妬することは悪いことではないが女性の方が「自分と寝たことで、自分が入手したトロフィー」みたいに男性のことを扱っていた。それを聞いていた男性の方も、トロフィーという文脈で嫉妬されていることは満更でもない風に語っていた。

素面の僕ならそこで吐き気を催しているところだが、その日はウォッカだかドライジンだかをロックで飲み、酔ってフラフラしていたので、特に食って掛かることもなく聞き流していた。早くその話が終わらないかなと思っていた。実際話は変わったのだが、一方で彼女の僕に対するボディタッチが激しくなり、程なく「キスしたい」と言われた。応じなければよかったと後悔している。というのも酔って純粋にキスしたくなったというのもあるのだろうが、少なからずもう一人の男性への当てつけとして、彼の嫉妬をあおるために、キスをするよう要求していたのが、直後にわかったからだ。彼女は「(この三人で)3Pしたい」とまで言っていて、耳を疑った。

翌日彼女はあったことをすっかり忘れて、僕を見かけると「昨日、あの後私なんかした」ときいてくるから腹が立って、ひとしきり抗議した。自分も記憶をなくすぐらい飲むことはあるし、粗相もしたことがあるし、飲みすぎたことをあまり責められる立場でもないのはわかっている。ただ前日の態度全般に対しては質しておきたいところがあった。彼女はあんな風でいて、大学内での学生のジェンダー意識が低いことを問題視して、不特定多数の人間が目にするような紙の媒体で繰り返し意見発信をしているというのだから聞いて呆れる。読んで呆れる。

一緒に隣で飲んでいる人間のことを「自分とヤッた/寝た男性」としてトロフィーのように扱う人間は、正直なところ、「女子高校生と援助交際している40代男性」とか「誰が一番多くの女と出会い系で会ってセックスしたかを競う高校生・大学生」とかと何が違うのか僕にはわからない。勿論「ジェンダーは非対称性を生む分割線だから、男性をモノとして扱うことで、逆説的にその非対称性に対抗することができる」という(僕の目には半ば無理筋とも見えるような)主張を展開することも可能かもしれない。(たとえ聞くに堪えないようなものであっても)主張を展開するのはけっこう。しかしトロフィーとして扱うような態度によって、自分の身に危険が及ぶとあれば、僕は黙っているわけにはいかない、断固として抗議しなければならない、と考える。

(この段落では、かなり議論の乱暴さが増すのをご承知おきくだされ。)大体、知りもしない彼女のことなんか詳しく書かれても困るとも思うが、黙っておけないので。例えば、仮の話として、自分も彼女も所属していなければ、構成員と直接の交友関係もないようなテニサーにおけるジェンダー問題や性暴力事件は、にもかかわらず重大な社会問題である。そこは否定しない。しかし彼女がそうした問題をカジュアルに批判の対象とし、槍玉にあげること(僕にはそのように見える)には不信感しか覚えない。自分の身の回りの人間の「人権」を尊重できずに、マチズモを振り回す人間が、自分の展開したい問題提起のために、手近にあるジェンダーの不均衡の実例を取り上げて、自分なりに調理する/調理しようとするのには反吐が出る。それこそ「被害者」の発言を封じ込め、黙殺するような差別的態度と言いうるのではなかろうか。もっともこうした批判は自分自身に対してもかえってくるものであって、だからこそ彼女に対する僕の一種過剰なまでの批判が可能になっているのだとも思う。

彼女から暴力を受けた腹いせに彼女を批判するのはそろそろ終わりにしよう。そんな不毛なことに時間を割くのは、本来、今回の記事の趣旨ではないのだ。今回は啓蒙と恋愛感情とについて語る回のはずなのだ。(ハム太郎風)

先ほどの不毛な議論で例示したかったのは、自主的な学びや他者との相互の啓蒙によって既存の枠組みを疑う姿勢を持てなければ、自分が振るう暴力・受ける暴力に対して語る言葉を持ちえないということだ。考えること、啓蒙の中でしか自分の生の安全を確保することはできないと、僕は知っているのだ。それは親との関係性においても同様である。

先日、30代の知人男性に、僕が日記のようにあったことをこうして整理する行為は「真の意味で問題と向き合うよう作用しているというよりはむしろ、残酷な現実を自分に叩きつけることで、自分が現実を改良することを諦めるための方便を探す方向に作用している」という旨の批判をもらった。確かにそういう側面はあるのかもしれない。しかし僕はこのように都度都度絶望することによって思考・態度を進めて変化させてきた。このやり方なくしては、僕はここまで来ることができなかった。勿論別様のやり方はあるのだと思う。変わらなければならないことも直感的にはわかっているが、今のやり方も捨て難い。何か違ったものを持ち込んだ結果、今のやり方と抱き合わせのいいものになればと思う。

とにかく僕は自己の学びと相互的啓蒙とによってここまで進んできたし、僕に付き合ってそういった啓蒙の機会を与えてくれた人には感謝している。おそらく今後もそういう人たちと人間関係を取り結んでいくのだろうなあと思う。ただ一方で、そういう啓蒙のためにしか踏み込んだ人間関係を取り結べないというのは一種病理のような気もする。と一通り絶望したところで、今日は筆を置くことにする。ではまた。

参考文献:

小池直人(2013)『グルントヴィとデンマーク型知識社会』http://www.is.nagoya-u.ac.jp/dep-ss/koike/doc/koike2.pdf

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