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攻撃性という切り口で

 嫌なことが二つあった。一つはtwitterのTLを見ていた時のこと。引用リツイートが流れてきて好奇心から引用されているアカウントをのぞいてみた。男性の裏垢で何人かの女性と約束してセックスし、女性の同意の上でその模様を撮影し、身バレしないように加工してあげていた。本人曰くSMプレイをしていて、その動機は「自分がSだからというよりは女性に喜んでもらいたいから」だという。一方で女性が喜ぶ様子を見て「征服欲が満たされる」とも書いていた。要は「性行為で女性を喜ばせるというロールプレイを通じて女性を支配するのが快感」なんだなと解釈した。
 映像を見ていて気持ち悪かった。悪寒がして、頭痛にも襲われた。別に彼が女性たちとどんな性生活を営もうと自由だし、非難する気もない。彼は悪くない。のぞいた僕が全面的に悪い。むしろ彼には敬意すら感じる。女性との同意のもとにロールプレイで征服欲を満たしているのだから。誰も傷ついていなさそう。問題は見当たらない。
 でも自分が同じ役回りを担う事になったら、という想像がすぐに頭を駆け回ってしまう。「他人を征服する」となったら、性行為で満たされる気がしない。相手の体を再起不能になるまで傷つけないと気が済まないと直感的にわかる。ナイフで相手の腕を切って傷口観察したいし、あざができるまで石鹸で殴りたいし、ドリルで頭に穴開けて相手の血をかぶりながら好きーって頭部を抱きしめたい。
 僕の中で征服欲や支配欲と紐づけられているのはこういう行為であって、他人を傷つけることになるし、満たされなくても生活に問題がない欲求なのだ。他人の征服欲や支配欲を目にすると、即座に自分の征服欲や支配欲に想像が回り、不必要な(必要の地平を離陸した)欲求を開発されそうになって吐き気がする。
 僕は普段封印されている自分の攻撃性を知っているから、他人を攻撃することからは距離を置いている。「封印」とはいうが普段は抑圧している事に気づかない。普段はないもの。映画でも動画でも小説でも手記でも、攻撃側から描かれた暴力の場面を目にすると攻撃性は湧き上がってくる。だからあまり攻撃側の視点で描かれたものは一人で見ないようにしている。誰かが一緒にいて助けてくれたら楽だからあまり気にならないよ。映画館でもホテルのテレビでも案外映画は人と見る方が好きかもしれない。(同居人たちとは映画であれ、文学であれ趣味が合わないから無理だけどね)
 理解されがたいだろうと思われるのは、別段暴力を目にしたり、想像させられたりすること全般が嫌いなわけではないことだ。例えば映画で言えば、ただ銃殺だろうがひき逃げだろうが、人殺しのシーンを観察者の視点から見ただけでは何とも思わない。自分は攻撃に直接には関与していないからだ。攻撃側の視点から描かれているのかどうかが決定的に重要。たかが表象の登場人物に感情移入しすぎだという批判は免れないだろう。
 僕は積極的にマゾヒストを演じている。好きな子になじられるのはすごい嬉しいし、攻撃されるのも結構好き。幸いなじってくれる友達が男性にも女性にもいるから楽。攻撃されるというのは攻撃性に近づくけど、自分が攻め手に回っていないということを確認できるから。攻撃性が発散される。
うっかり彼のアカウント見たのは失敗だったし、二度と見ないようにする。不幸な出会いだっただけ。怖いものは見ないに限る。

 今一つ嫌だったのは父親が「娘が欲しかったな」と言い出した事。そんな事息子に言ってくれるな。お前らに娘を生む運が無かっただけだろ。死んどけ。しかもだ。「娘がいたら絶対嫁にやりたくないよな」とぬかしやがる。「最低。今年一番のドン引き事案だわ」と返したら「同じ立場になったらわかるって。子ども可愛いんだよ」と。
 子どもは親の所有物じゃない。この手の話になるといつも思い出すのは高校の時の男性教師。結婚するんで向こうの親の元に出向いて「娘さんをください」とやってきたと誇らしげに言ったんだ。もっと屈辱的な表情をしてるんだったら分かるんだよ。「本当は言いたくないけど、やらなければならなかった」ということが伝わってくる。そういうのが彼からは全然感じられなかったわけ。
「娘/息子は親の所有物じゃないし、結婚しても結婚相手の所有物になるわけではない」という了解が取れているならこんな物言いはしない。
 教師の彼がどんな家族観を持っていようが自由だし、特に誇らしげに語るまで興味もなかったし、今も彼を批判する気はない。しかし誇らしげに語られてしまってから、いつまでも反面教師として頭に引っかかったままだ。僕には彼みたいな意識は全然ないし、ああいう意識は嫌なので、そんなこと言うつもりはないし、結婚するつもりもない。たとえ儀礼的であれ、結婚相手が所有物だという設定にしてしまうと(設定に乗っかってしまうと)攻撃性を抑えられなくなる気がする。同居している人間を一旦支配しようとしたら元に戻れなくなるのを感じる。何より相手を傷つける事になってしまう。絶対に踏み越えてはいけない一線だと感じている。
 父親はこと家族観については僕のこと何もわかっていないので、平気であんなことが言える。自分の子どもと同じ関係性を築いて誰かを自分の犠牲者にするのには耐えられないから子どもは欲しくないし、結婚相手を支配下に置いて犠牲者にしたくないから結婚もしたくない。別に支配-被支配でない結婚/育児もありうるだろう。でも僕はそういう家庭で育ったし、家族ときくとそういう関係性が連想されてしまって気分が悪い。気分が悪いのに無理をしてまでやってみる動機もない。何より一度でも失敗したら、生きていける気がしない。今僕が感じている生きづらさを僕のせいで他人が味わう事になるのは許しがたい。相手への背信行為であるのは勿論のこと、自分自身への裏切りでもある。

 結婚/育児と同様に性行為も攻撃性への扉を開きそうであまりいい気分がしない。前述の通り、相手を征服しようとするのは勿論危険だし嫌だが、そうでなくても、性行為には感情を殺される瞬間があって、自分が制御の外に行ってしまう感覚がある。確かに制御できないことと攻撃的になったり抑制的になったりすることは同義ではないが、安全装置が解除されていて、偶発的衝突とか偶発的着火とかを待っている。それが恐ろしい。
    気持ち悪いことはいろいろあったが、おかげでか自分の攻撃性とうまいこと付き合いながら暮らす方法もおのずから見えてきそう。結婚を避けて、好きな人とゆるーく同居していればそれで満足。勘違いされると困るから断っておくと「結婚しない」というカードを切ればなんでもうまく行くとは思ってないよ。両親の二の轍を踏まないためにはお互いを理解する不断の努力が必要だ、ということは認識している。むしろうまくいかないのではないかと常日頃から不安。
 実は幸いにも「結婚しなくてもいいから一緒にいたい」と言ってくれている人がいる。結婚に対する恐怖感を理解してくれて、結婚にこだわらずに一緒に歩いてくれる、と言ってくれるだけでも救われる思いがした。なぜかはわからないが、高校を卒業するまでは「みんなが『結婚をすべき/結婚や家族は尊い』という価値観にとらわれていて、僕は支配-被支配の関係の連鎖から逃れようと結婚をしないという選択をしたら、誰とも一緒に暮らせないのみならず、誰からも理解されずに死んでいくしかない」と思い込んでいたから、救われる思いがしたんだろう。
 一番そういう思い込みが強化されたのは、塾で講師に「ご両親は仲いいですか?」とみんなの前できかれたときだった。僕は単に質問されているだけだと思っていたから「悪いです。全然よくない」と答えたところ、みんなの視線がさっと冷たくなっていくのを感じた。その場ではただただ驚くばかりだった。質問に素直に答えただけなのに何か悪いことしただろうかと。そういう場面であらまほしき答えは「良好です」とか「普通です」とかといった答えで、否定的な回答は想定されていないのだというのに気づいたのは少し後だった。だったら自由回答の質問を投げるんじゃなくて否定的な回答をしないよう誘導してくれよ。僕ならそれでも否定的な回答するけどさ。
 誰からも理解されないのではないか思っていた高校在学中だが、当時出会った人々で今でも付き合いが続いている人は大抵いい友達だ。今回みたいに攻撃性という切り口で彼ら彼女らに悩みを打ち明けたことは多くないが、性行為/結婚/育児が嫌なんだというパーツの部分の話は何人かにしたことがある。友人たちは話を聞いてくれて一切否定しなかったし、なんなら「自分も嫌だ」と言い出す人もいた。性行為が嫌なのに恋愛感情はある僕を指して「(性行為と)恋愛とはセットだと思ってたから驚きだわ。だから恋愛できなかったんだけど。そこ切り離して考える人わたし初めて見た」と言った人もいた。ただの知り合いにこういうことを話すと、話をさえぎって否定しにかかる人間もいるので、余計にうれしかった。
    なんか気の合う人を引き寄せる力を持ってるのかもしれない、という自惚れもある。何が言いたいかというと、嫌なことが様々あったけど、一歩引いて冷静になって考えてみると、一番つらかった時期に比べれば、今は理解者もいるし、助けてくれる人もいて大分環境が良くなったなということ。思い悩むことでもなかったな、って話。言語化して楽になった。そうはいうものの、また時間がたったらくだらないことで苦しむんだけどね。
 そうなったらもう一度こういう形で言語化する。嫌なことはあったけどひとまず乗り越えましたってご報告でした。それでは

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