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このくるしみは、だれのもの

 

 “さて私はこうして地獄の底にいる。もし必要なら人は、過去や未来をスポンジでぬぐい去る技術を、すぐにも学ぶものだ。”


 第二次世界大戦終盤のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所には、遺体処理に従事する囚人の特別労働班ゾンダーコマンドが存在した。映画『サウルの息子』は、ゾンダーコマンドに所属するユダヤ人の男サウルが主人公だ。

 サウルは、収容所内で偶然見つけた息子の遺体をユダヤ式に弔うことへ異様なまでの執念を発揮する。その日は奇しくも囚人らによる脱走計画の決行日にあたり、収容所内は次第に混迷を深めていく。サウルは周囲の混乱をよそに息子の遺体の確保を医者へ依頼し、ラビ(ユダヤ教聖職者)の囚人を見つけて葬儀の執行を頼み込むなど、ひたすら葬送実現だけに邁進する。本作はそのほぼ全編において、サウルの視界のみを映し出す。焦点が合うのはスクリーンの中央のみ。フレームの外から流れこむ阿鼻叫喚にサウルが終始無反応でいることが、観る者の想像力をかえって刺激する。



 周知のように、大戦末期のアウシュヴィッツではユダヤ人をはじめとする被収容者が大量に虐殺された。そこでは人々を“効率良く処刑する”ためガス室が準備され、遺体は焼却炉や焼却壕で処分された。その一方ユダヤ教では教義により、死者が復活できないとして火葬は禁じられている。

 被収容体験をもつ精神科医ヴィクトール・フランクルは、主著『夜と霧』においてこう述べた。

 “わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。”

 圧倒的な暴力を前に、個としての人間はあまりに非力だ。しかし非力であっても、人としての尊厳を保つことが不可能ではないこと、むしろそこにこそ人生の本質が宿ることを、極限状況を生き抜いた先人達は教えてくれる。



 昨年は終戦70周年に当たるため、洋の東西を問わず、また映画に限らず第二次世界大戦を描く作品が多く発表された。

 日本映画で2015年中に全国公開されたものだけをみても、塚本晋也『野火』、原田眞人『日本のいちばん長い日』、荒井晴彦『この国の空』、磯村一路『おかあさんの木』と枚挙に暇がない。

 欧米におけるこの流れに乗った映画作品の日本公開が、年明けから本格化した。『サウルの息子』やアウシュビッツで落命した女性作家イレーヌ・ネミロフスキーの小説を映画化した『フランス組曲』をその鏑矢として、東京の大森や直江津にあった捕虜収容所を舞台とするアンジェリーナ・ジョリー初監督作『アンブロークン 不屈の男』(2月公開)や、ナチス親衛隊将校でユダヤ人絶滅計画を立案したアドルフ・アイヒマンを裁く法廷のTV中継に焦点を当てた『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』(4月公開)などがあとに続く。ぼくは『アンブロークン』を昨春バンコクのシネコンで、『アイヒマン・ショー』を2月に松竹の試写室で観たが、いずれも予想を遥かに越えた力作だった。



 “アウシュヴィッツとは、まさしく、例外状態が正規のものとぴたりと一致していて、極限状況が日常的なもののパラダイムそのものとなっている場所のことである。しかし、正反対のものに転じようとするこの逆説的な傾向こそが限界状況を興味あるものにしているのである。今日ますます頻繁に見られるようになっているように、両者は、共犯関係を白日のもとにさらすやいなや、いわば内側から互いに照らし合う。”

 さて。

 実のところこの映画では、「息子」がどのような意味においてサウルの息子であるのかについて、敢えて十分には語られ切っていない。ともあれサウルが脱走計画に乗じるでもなく、ユダヤ式葬送実現へ向けて非合理的ともいえる貫徹ぶりを見せたのはなぜなのか。それは絶望的な状況下で押し殺してきた人間性が、息子の遺体に触れることで蘇ったからだろう。身の安全にも優越する価値の存在。その価値を証すものとしての信仰が、経済合理性によりあらゆるものが単元化されつつあるかに見えるこの社会において、なお一層の今日的意義を抱え持つ理由の一端はここにある。凄惨と喧騒に満ちた強制収容所を舞台としながら、黙想にも似た静けさを湛える物語。『サウルの息子』はこの意味で類稀な、そして鮮烈な祈りの映画だと言えよう。




『サウルの息子』 "Saul fia" "Son Of Saul"
引用部出典上: プリーモ・レーヴィ 『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』 竹山博英訳 朝日選書 p.37、中: V・E・フランクル 『夜と霧』 池田香代子訳 みすず書房 p.145、下: ジョルジョ・アガンベン 『アウシュヴィッツの残りもの ― アルシーヴと証人』 上村忠男 廣石正和訳 月曜社 p.63
(本稿は、季刊誌Ministry28号[2016年2月号]への掲載記事に加筆したものです。)

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