縁は炒るもの
じつは二年前の今ごろ、珈琲屋の店主になりかけていた。
タイ移住後はまず一軒の物販店をまかされたのだけれど、テナントの契約終了に伴い、移転先として見つけた有力候補がバンコク都心の裏道に臨む元珈琲屋の店舗で、人の背丈を優に超える巨大な豆の焙煎機から円で200万ほどするらしいエスプレッソマシーンまで、高価で大仰な設備が一式そのまま残っていた。店舗オーナーはタイ北部にコーヒー農園を持つ華僑系のけっこうな資産家らしく、元珈琲店の上階には各種豆の試験部屋まであった。ゆえに珈琲が飲め、本も売って文化系イベントも適宜開催するお店、という昨今どこぞの蔦屋がやりそうなことを構想したのだけれど、結局農園主との賃料の折り合いがつかず話は立ち消えた。
一方で、この数年のうち知り合った友人が、なぜか幾人もコーヒーに嵌っている。そういう流行がどこかにあるのか、自分たちがそういうお年頃に突入したのかよくわからない。茶道はありふれているし有閑マダムっぽい敷居の高さを感じるけれど、日常的な嗜好品にも何かこだわりを持ちたい層、とかなのか。わからない。
一定の手続きがそこに宿れば、それがどのようなものであれ美学化し様式化せずにいられないのが日本人の性ではあるけれど、否応なしに押し寄せる物質文明に対峙して民族的受容の構えが見せるそれはひとつの反映なのか、どうなのか。『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』の主要人物として日本人も二人登場するのだけれど、世界の奇種である日本人ゆえに極められたその境地、というありがちな白人視点で扱われ、侍から禅、援交少女からアニメまでの「日本人」イメージとその核において通底して感じるこの切なさはいったい何なのか。刹那さか。
にしても、映画のなかでブルーボトルコーヒーの創始者らが神のように崇めて語る大坊珈琲店店主・大坊勝次の御手により、張り詰めた空気のなか緩やかに舟を漕ぐよう時間をかけて一杯のコーヒーが淹れられるシークエンスはたまらない。コーヒー好きを一瞬でも自覚したことのある諸氏にはぜひお奨めの名場面だ。これは疼くよ。
アメリカのコーヒー起業家らが、フェアトレードでは足りぬダイレクトトレードだ、などと意気込みコロンビアのコーヒー農園で働く労務者たちに、彼らが育てる豆で淹れたエスプレッソを飲ませ、彼らの綻ぶ笑顔をクローズアップする場面がある。正直な話、欧米バリスタの競う綺羅びやかな世界を見せられたあとにこうしたシーンを観たせいもあるのだろうか、農園の働き手に丁重な手つきでカップを渡す白人バリスタに鼻白む思いがしなかったといえば嘘になる。日に焼けた労務者がスペイン語で語る「初めて呑んだ、うん、旨い」ってそのセリフ、撮影があるまで一度も飲ませてあげなかったことを証しているようなものだしね。
こうしたあたりには、本作を撮った監督の本拠地がカリフォルニアなら、スターバックスもタリーズもブルーボトルもみな米西海岸に出自をもつっていう、粗く言ってしまえばアップル的グーグル的「意識高い」系の目線が孕むある種の傲慢さにも近い、現代版の高踏趣味をすこし感じる。とはいえ嗜好品としてのコーヒーに真性のフェアネスを求めるほうが筋の悪い話といえばその通りだし、映画公開の資金をクラウドファウンディングで集めたとか、下北沢での試写イベントでも筆者自身がスペシャルティコーヒーの提供にあずかったというエピソードなども込み込みで、意識低いまま珈琲店をやりかけた自分には、なんだかまぶしい世界が垣間見られた。
心づくしの美味しいコーヒーをいただくと、それはもうすべてが豊かにふるえますよね。世界の温度がほんのり上がる感。
『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』 昨年暮れより全国順次公開中 http://www.afilmaboutcoffee.jp/
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