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無原罪マリア長崎ペルム紀ジャンヌ!

↑トップ画像:イーダ(ダーウィニウス・マシラエ) オスロ大学自然史博物館蔵 4700万年前


 一時帰国中、京大院でキリスト教学を研究する友人が学会で上京するのにあわせ、周辺の友人たちと一晩呑んだ。それに先立つ夕刻すこし時間ができたので、彼を連れ東京国立博物館の特集展示へ出かけてみる。

[link] 東博特集展示: キリシタン関係遺品にみる聖母マリア信仰

 新聞社やらテレビ局やらとの提携で、街中に宣伝される毎度の特別展とは別に、国立系の美術館博物館では小規模ながら、館の片隅でこうした特集展示もひっそりと組まれ続けている。学芸員の熱がしっかりと伝わってくるこうした展示こそ本来はもっと予算が充てられ耳目を集めて然るべきなのだけれども、そこを「べき」と感じられるトライブには不思議なことに金も権力が揃ってないので、展示があるだけ良しとする。風姿自づから異ありて江戸の粋。


[link] 原爆投下の正当性をめぐるアメリカ人の意識変化 (英文)


 きょうは長崎への原爆投下からちょうど70年の節目の日だけれども、かえすがえすもそこがどういう土地だったのか、そこで何が灼かれたのかについて、アメリカ人のなかでもとりわけ“敬虔な”キリスト教徒たちはもっと知る機会を持てれば良いのにと、こういう日には僭越ながらよく感じる。これは怨恨とか糾弾への期待から言うのではなく、反知性主義と昨今名指されるところの母体となった彼らにとって、己の信仰が孕む広がりと多様性を知覚することは端的に善い働きをもつように憶測するからで、なにひとつ悔いることのない良心ほど醜いものは他にない。ともあれ展示品のほぼ半数は江戸期の長崎奉行所に由来する、つまりは弾圧と生存の苛烈な残痕たちだった。

 桃山・江戸初期の長崎一帯に展開された鋭い対峙と虐殺の激しさを、たとえば今回展示された板踏み絵の使い古され擦り減ったマリアやイエスの身影にみるのはきっと、行き過ぎといえばかなり行き過ぎなのだろう。だとしても。そこにあるロザリオやメダイやマリア観音像の列を目にして、江戸の数世紀をかけこれらを守り切った人々の孫や曾孫の幾らかが70年前長崎の真昼の空を襲った鋭い閃光によって瞬時に生を奪われあるいは、生涯拭えない傷を負ったままきょうこの日をどこかで迎えている風景を想像する。その風景が今は穏やかなものであってくれたらとも願う。過剰かな。かもしれない。

 原罪とは。


聖母像(親指のマリア)(部分)長崎奉行所旧蔵 17世紀後期


 また別の日には、国立科学博物館へも足を運んだ。《生命大躍進》展であるわっしょい。

 上野で怠け学生していた頃にはなかった地球館が、大規模リニューアルされたと聞いて行ったのだけれども、いやもう楽しいのなんのってきゃっ、ほぅ。アノマノカリスの化石とかマジやばい。タイプすぎて悶絶寸前。きゅんときてハァハァしてたら夏休み中とおぼしき幼女が脇から見上げる視線の純朴さに打ちのめされてギリ生還。物への偏愛という点でも、この博物館の地下で売られていた合板の恐竜骨格模型ほどわが幼児期の心を占めたものは珍しい。にしてもバージェス頁岩動物群最強すぎる。うほぃ。威容を誇るウミサソリ化石のイケメン屹立ぶり樽屋。

[link] 国立科学博物館《生命大躍進》展

 個体発生は系統発生を繰り返す。それゆえカンブリア大爆発も恐竜の絶滅も、生物体としての《この自分》をめぐる物語の一環とみるならストレートに了解できる。古層への旅。超、古層への。一個の生物体として。壮大な記憶システムの一端末として。迷子になるのが得意であった幼少時、この博物館は展示室も今よりずっと雑然として、整理がついていない部屋も実際あった。公開していたかも微妙な階段を登った先の暗がりには、説明もなくエジプトのミイラがしんと横たわっていた。頭骸骨の開いた口蓋に並ぶ黒ずんだ前歯の照かりは悪夢の化身であった。

 しかしそこにみた邪悪さはいったい何の反映だったのか。そも果たしてそれらの記憶は本物なのか。ほんとうの。この。個の。変容し、脈動する。


ドラクロワ 《ライオン狩り》(部分) ボルドー美術館 1854-55


 この週末は、国立西洋美術館にて《ボルドー展》をみた。人ごみを警戒し金曜の夜間開館を狙ったらガラガラで、運良く企画の若い大学講師によるスライドレクも聴けたが、講師の語りがなんとも雅びにほがらかでよく眠れた。本館ル・コルビュジエ建築の世界遺産申請が決まったとかで、関連の掲示や特集展示なども。いやはや何ともどんとこしょ。

 さて《ボルドー展》、展示がクロマニョン人の壁画や石器から始まるのはご愛嬌として、仏革命あたりから違和感が募りだした。奴隷の主題をなぜ植民地文脈でしか並べず、モーリアックを扱いながらジャンヌ・デュヴァルは出ないのかと首を傾げるに至り、ナントと取り違えていた自分に気がついた。なんと壮大な勘ちが……。要はそこへと至る小一時間、自身の脳裡でのみ展開される異次元史観に立ち当個体はこの展覧会を楽しんでいたことになる。

[link] 国立西洋美術館《ボルドー展》

 異次元と、いえば。そもボルドーという街に焦点化した企画そのものに電通的ナニカが予感され、TBS世界遺産ちっくなモードを予想したらまんまTBSの主催企画と知って笑ったけれど、こういう企画があるおかげでアビ・ヴァールブルク展とかラ・トゥール展みたいな超絶マニアック良展示も成立してきたのだろうからありがたい。それに本展の目玉はウジェーヌ・ドラクロワの大作《ライオン狩り》と誰の目にも映るはずだけれども、ほんにまぁ、この極東までよく運んでくれたものですよ。もちろん彼の代表作《民衆を導く自由の女神》だとか《キオス島の虐殺》などに比べれば若干雑だしそもそも作品上部が盛大に焼き切れている欠陥作品ではあれど、だからこそこれほど巨大な異例作が勝手知ったる上野で観られる異次元感とかもうねもうね。あちょいとつかれてきたかも南蛮。


ノートルダム・ド・ラ・ガルド大聖堂改築記念メダイ 東博 19世紀

 

 に、しても。

 国立西洋美術館の世界遺産申請ってどうなん蟹。たし蟹ね、悪くない。ひさびさに本館の常設展を歩いたけれど、これはこれで後世に残すべきってそらおもう。あの中央ホールと展示回廊の絶妙かつシャープな連絡とかビンビンきちゃう。でも世界遺産ってもっとこうまちゅぴちゅしたり、なんかもんさんしたりするもんじゃん。ねぇ。ユネスコの下部組織で世界遺産候補の選定に携わるイコモスって国際機関があるのだけれど、実は大学院進学前、のちにイコモス理事になった某教授研究室の助手さんからも誘われたんよね。学部生時代、ぼくはこの某教授翁を焚き付けて、江戸城外堀に舟を出したりしてもらってた。もしそちらに舵を切っていたのなら、研究室に籍を置きつつイコモスの日本支局事務員とかで糊口をしのぎ、今よりずっとのんびり暮らしながら世界遺産選定へ向けたペーパーワークとかしてたのかもしんない。みたいなことを、「世界遺産申請決定!!」の館内特大掲示を前に連想しちゃうこの侘びしさ。金曜の夜の、閉館間際のガラガラの。取り違われた記憶の生む世界の別史、世界線をまたいだ先に覗ける別種の暮らし。

 巻き戻って無原罪マリアの特集展示。居並ぶメダイの図解パネルの一つで、からだの左右に拡げたマリアの両手先から伸びる放射状の線の束の意味を、これまでずっと取り違えてきたのを知った。単なる衣紋だったのね。後光の末端か、手のひらから出るオーラ的な神聖さの表現だと思ってきた。巻き戻し音きゅるきゅる鳴るよ。

 十代の頃にコルカタでマザーテレサからもらったメダイを身につけ日々を暮らしだしてからの時間が、気づけばもう半生を占めている。自身が恐らくはどこまでも不信心な人間で、正しいものを疑い最後まで抗い続ける愚者の骨頂に立つことを当時から予感していたゆえの黥刑、みたいなニュアンスがなかったと言えば嘘になる。少なくとも憧憬の仮託とか単なる護符でなかったのは確かで、こういうインド人も真っ青ねじり鉢巻きもビックリなひねくれようも時が経ってふり返るなら、案外アリかもしれないなとようやく思えるようになってきた。

 ナシでもそうなっちゃったものは仕方ない。

 



(※2015年8月9日筆)

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