”いつかきっと”を

“あいしてる”を、知りたいのです。のヴァイオレット・エヴァーガーデン。

時間ができたので、京アニの例のアニメを見ました。知人にはバスタオルを準備しておけと言われました。なるほど確かに泣ける作品です。でもそこらへんはまぁ、作品を見て実際に感じてください。作品はネットで見れたので、OSTだけ購入しました。音楽べらぼうに良い。菅野よう子さんと初めて出会ったときに似てるくらい惚れました。

前回も愛について書いていたきがしますが、愛ってテーマは幸村誠さんもよく使っていたりして、人間ドラマには無くてはならないものですよね。でもまあ日常生活で愛を語るなんてことはあんまりなくって、お墓参りに行ったりして何となくそういうものを感じたりして。

私は仏壇でもお墓でも、手を合わせながら報連相をしたりお願い事をしたりするんですが、親戚の家は別にただ手を合わすだけだったりして、そういうところにも違いってありますよね。みなさんはどうでしょう。何か思いを伝えたりしてますか?

何かを伝えようとすると、自分のことを整理しないといけなくて、その上で言葉にしないといけない。とても面倒くさい作業ですが、結果や目的が明確になるのは良いことですよね。だから手紙を書くことも私は好きです。

子どもたちにお別れの手紙をもらったら返事を書くこともありました。手紙を書ける子は大体が女子で、上辺はチャラチャラした子でも芯のしっかりした子なので、ちゃんと返事の手紙を書くことで何かしらの思いは伝わって立派に成長していたと思います。

自分の言葉で何かを書くことは、とても大切なことです。それは自分の中の骨組みを作るような行為だと思います。そこにはきっと、何らかの愛の形が詰まっていて、人それぞれの思いを伝えるための言葉が綴られるわけで。私はそれ自体がアートだと思うので、歌や絵と同じように手紙を書くのも好きなんだと思います。

愛が何かを表現しようとする葛藤は、人間だけのものでもないと思います。そして、それに気づくこともそうであるから、動物とも慣れ合うことができたりします。本能的なものに近づくほど、それはアートっぽくなります。このアニメでは手紙の文章を人が上手に読むことで、より芸術性が高まるわけです。手紙を声に出して読むなんて、普通なら嬉し恥ずかしです。

でもそういう、くすぐったいものでなければ、伝えたいなんてことにはならないのでしょう。くすぐったくて仕方が無いから手紙にしたいと思うわけで。でもそんなときに手紙を書く能力が必ずあるわけではない。そんなあなたに、自動手記人形サービス!というわけですね。

ハイロウズは胸のドキドキと歌っていましたが、そういう心に触れようとする行為こそ、愛なんじゃないかなと思います。私が仕事でどれだけそういうことができているかは分かりませんが、まぁ表情を見れば何となくは分かるので、それでいいのではないのでしょうか。

ただ自閉傾向や発達障害を思い浮かべると少し不安になったり。自制心や共感するための機能に障害があれば、それを伝えるために普通の人以上に表現する必要があります。あるいは、その人なりの思考に沿って伝える必要があり、ヴァイオレットの場合はエキストラエピソードの手紙だったわけで。

東田直樹の跳びはねる思考という本があります。自閉症だけれども、タイピングでは思考を整理して表現することができるから出版できたという作品。私はこの本を読んで目からうろこだったわけですが、自分が学生の時に似たような話は聞いたことがあったので、自分で表現が苦手な子でも思考は同じようにしているのだなと感じたのを思い出しました。

こういうのは実際にはグレーゾーンがあって、個性として受け入れられる部分もあれば、そうじゃないところを攻められて二次障害になってしまうこともあったりして。そういうのって知識や執念がなければどうしようもなかったりします。

夏休み明けの自殺とか、いじめを無くすとかは、本当はこういうところをきちんと勉強することで少なくなっていくと思うのですが、歴史が浅かったり、センシティブな内容なので難しい分野だよなあとも思ったりします。

思いを伝えることに障害がある人もいる。思いを伝えることが障害になることもある。思いを伝えるためには能力がいる。気力もいる。愛が尽きればできることは少ない。愛を貰える環境であれば良いが、そうでない場合もある。愛が無く、分かり合えなくなったとき、何を考え、どう生きるか。

なんか難しくなってきたので切り上げますね。でも私は何となく、社会問題として切り込むべき場所は、ここだろうなあって思います。京アニに放火した人はどうしてそうなったのか。火傷をしたヴァイオレットは許されるのか。本当はそういうことを考えてほしいのです。

「私は誰かの”いつかきっと”を、奪ったのではないですか?」

考えすぎは良くないです。でもその時間があるのであれば、そうするべきだと思います。そうしてさえいれば、こういった事件も少なくなると思いたいのです。本当は勉強よりも、そういうことを考えさせてあげたいのです。

あるいは大人が、もっと知って、もっと考えるべきなのだと思います。

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