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陸前交通についての基礎情報

私の中で最も古い架空鉄道である陸前交通と、その舞台装置である架空仙台について基礎情報をまとめる。今までの私といえばサイトを持たない架空鉄道作者であり情報の体系化が全くされていなかった。今からその流れを断ち切り、体系化を進めていきたい

概要

陸前交通は宮城県仙台市に本社を置く鉄道会社である。
一般には大手私鉄に分類され、鉄道業以外にもコンビニ、スーパー、ショッピングセンター、賃貸マンション、住宅販売事業なども展開している。
東北全体で5本の指に入る大企業であり、東北出身者の中では優良な就職先の一つとして認知されている。

陸交の現行ロゴ

鉄道

陸交は総延長xxxkmの路線網を有している。
仙台から全方位に向け放射状に延びていることが特徴で、観光輸送、都市間輸送、郊外輸送の三つの輸送に軸が置かれている。
観光輸送は有料特急を主体として仙台から鳴子温泉、松島、蔵王山を結んでおり、それぞれの地域における観光開発事業と連動している。
都市間輸送は仙台と半径約40kmの主要都市を結び、ラピッド仙台というブランドを冠する。郊外輸送は仙台都心から郊外の住宅地に向けて毎時6本運転を行うもので、メトロ仙台というブランドを冠している。

経営

陸前交通の経営には他の私鉄とは異なる独特なスタイルが見られる。
最も特徴的な点は、鉄道の運営を自治体と分担して行っている点である。例えば仙台都心部の区間を陸前交通は保有していない。同区間を保有するのは、仙台市が100%株を持つ仙台地下鉄道株式会社であり、陸交は同社の線路上で車両を運行する権利と、同社の設備の委託管理する役回りだ。つまり、運行面では陸交のネットワークと一体化しているものの、経営や運営に関しては仙台市の領域となっているのである。このような分担はほかにも存在しており、陸交は沿線自治体に一定の経営権を委譲して久しい。

このような制度が形成された背景には、陸交沿線の人口規模が関係している。仙台都市圏の人口は130万人、沿線都市の平均人口は10万人前後であり、この規模では日本の大都市圏で自明となっている民間企業ベースの鉄道経営が通用しないのだ。このような課題に対し自治体は陸交の管理運営を自ら引き受け、税金を投じてサービス水準を向上させる道を選んだ。そして現在のような独特のスタイルが形成されたのである。

では陸交はどこを経営基盤としているのだろうか。答えは観光、小売、不動産といった付帯事業である。陸交は1980年代に自身が保有していた鉄道事業の運営を公共セクターに委ねた。その代わりとして徹底した路線改良や設備更新が行われたため、新しく便利に生まれ変わった自社線をブランド化し、付帯事業の活性化につなげたのだ。つまり、陸交は本来の基幹事業であった鉄道業の公共化を自社に有利な形で"活用"し、新たな経営基盤へ転換する戦略を採ったのである。

陸交経営のスーパー「Rekpo」
マンションブランド「STELLARUM」

歴史

陸前交通は1943年に宮城電気鉄道、青葉電気鉄道、仙台鉄道、蔵王鉄道、栗原鉄道が合併し誕生した。その歴史は次の三つの時代に分けることができる。はじめに陸交成立前の①時代(1943年以前)、次に陸交成立からメトロ化までの②時代(1943-1982)、最後にメトロ化から現代へ至る③時代である。

①時代

①時代では陸前交通を構成するそれぞれの私鉄が、現在の路線網の原型を作り上げた。しかし、既に1930年代の段階で県内における私鉄主導の鉄道整備は不安定であり、青葉電気鉄道や仙台鉄道は建設時の融資を返済できない状態が続いた。そのため県内政財界では、経営が安定している宮城電気鉄道と栗原鉄道が主導し、県下の全私鉄を一社に統合することで、鉄道網を維持すべきとの声が強くなっていた。いわゆる「交通調整」である。

このような議論が進む中で、日本は1937年から日中戦争を開戦し総力戦体制に突入。翌1938年には陸上交通事業統制法が施行され、地域単位の私鉄統合が法的に承認される運びとなった。こうして、地域的な議論と総力戦体制が結びつく形をとり、陸前交通が成立したのであった。
今から振り返れば、民間ベースの鉄道維持に限界が生じることはこの時点で予言されていたともいえる。

②時代

以上のような経緯をもって1943年に陸前交通が成立し、②時代に入った。
②時代では東北最大の私鉄に見合った組織体制の整備が進んだ。
成立当初の陸交は、合併した各社の制度がバラバラに存在し、車両や保守設備の規格化も全く進んでいなかった。そのため、部品、制度、人員の規格化、中央集権化に重点が置かれたが、この際主導権を握ったのは旧宮電閥である。旧宮電はもともと県下最大の私鉄であり、政財界で交通調整が議論されていた頃から主導的な立場を握っていた。そのため陸交内での発言力が強く、他線区のシステムを宮電化していく形で体制が整備されることとなる。

②時代の陸交を経営面で支えたのは貨物輸送と都市間輸送である。先述の通り蔵王線、栗原線はそれぞれ沿線に鉱山を抱えており、朝鮮特需から高度成長期にかけては輸送量がうなぎ登りに増加した。巨大な路線網や山間部の過大設備を抱える陸交にとって貨物輸送は命綱といえる存在であり、言い換えれば依存している状態だった。都市間輸送についても貨物輸送ほどではないが利益を上げており、各線区の急行列車は増便と速達化が進んだ。
このように、貨物輸送に依存しながらも順調に経営されていたが、1973年にオイルショックを契機として歯車が狂い始める。国内の物価上昇によって鉱石は輸入志向に転換し、命綱である貨物輸送の縮小が始まったのだ。追い打ちをかけるように沿線にはバイパスが整備され都市間輸送も利益率が低下、県下鉄道網の存続を企図して成立した陸交までもが存続危機に陥る事態となった。こうして、陸交の取り扱いについて県や市を交えた議論が始まり、③時代へと向かっていく。

③時代

③時代はメトロ化、準公営化という二つの大きな転換を経て現代につながる時代だ。
[執筆中]


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