日記#11 私鉄解体論の試み①
東武東上線の池袋から成増にかけてを観察すると、そのバイオレンスな様相に毎度圧倒される。掘っ立て小屋のような駅、遮断棒ギリギリまで押し寄せる人々、その目と鼻の先を時速80kmの鉄塊が通過する様子には恐怖すら覚えてしまう。
これを読んでいる人々は、この景観に若干の恐怖を抱きつつも抵抗なく受け入れてしまうかもしれない。しかし、この景観は世界的に見て極めて異常である。
日本国外に目を向ければ、鉄道と生活空間は分離されているのがふつうである。多くの都市では鉄道と市街地の間には緩衝帯が設けられており、木が植えられて視覚的に遮られていることもままある。
もし、海外の鉄道写真を見たことがあれば思い返してみてほしいのだが、トラムでもない限り線路の周りは視界が開けているはずで、線路の傍に人や建物が迫っている景色があるとすれば、それは市場の真ん中を鉄道が突っ切る、タイや台湾の景色だけではなかろうか。
考えてもみれば、鉄道は大きな騒音を発するし、そもそも人が接触すればまず助からない危険なものであって、できる限り離したいと考えるのは自然な発想ではないか。
しかし東京をはじめ日本の都市鉄道は違う。駅前には当たり前にスーパー、マクドナルド、雑居ビル、そしてマンションがあり、柵と踏切を唯一の隔たりとしながら鉄道と生活空間は極限まで近接している。この差異を認知したとき、なぜ日本だけがこの異常でバイオレンスな都市鉄道を生み出したのか?という問いが立ち上がってくる。
この問いについて思考していたところ、問題の核心に「私鉄」の存在があるのではないかと思うようになった。私鉄とは民間資本によって運営される鉄道を指しており、東急、西武、東武、阪急、京阪といった具合で全国各地に存在する。更にJR各社についても私鉄の範疇に入る。日本は私鉄大国なのだ。このように日本社会の中で普遍的に存在する私鉄こそが、前述の問いのキーになるのではないか、というのが私の見立てである。
ところで、私は仙台を中心とした「陸前交通」という架空鉄道を長らく制作しているが、設定を考証するうえで一番の悩みどころは、大都市圏外で長大な路線網を抱える難しさだ。人口100万人程度の仙台都市圏では、利用者がそこまで多くないため鉄道事業がマネタイズできるほど収益性を持たない。時折ニュースで報道される地方鉄道問題もこれに関連するところであるが、この問題を解消するため思索するにつれ、またもや「私鉄」の存在が浮かび上がった。
こちらは本論と関係ないため詳細を割愛するが、この悩みは「陸前交通が私鉄である」という所与の前提に問題があると考えたのだ。陸前交通が私鉄である限り長大な路線網に対する説明ができない。しかし、マネタイズしない鉄道は無駄なのだろうか?海外を見れば都市鉄道はほぼ全てが公営であり、それは仙台よりも小さな50万、20万クラスの都市だとしても例外ではない。そのように考えて、やはり私鉄が何かおかしな状態を作り出しているのではないかと思ったのだ。
このように、いくつかの問題意識を掘り下げていくと、必ず私鉄の存在に突き当たることに気づいた私は、私鉄という前提を疑うことによって鉄道に対する理解を深い領域へと進められるのではないかと考えた。こうして「私鉄解体論」が立ち現れてきたのである。
私鉄解体論は生まれたばかりの理論であり現在も思考を続けているものだ。まだまだ不完全なところはあるが、これがいつかまとまった問題提起として体系化されるまで、こうして過程を綴っていきたいと思っている。興味を持った方はぜひ付き合っていただきたい。