坂道を登って「嵐電」がやってくる!

「嵐電」は四条大宮と嵐山をつなぐ京都の路面電車で、沿線には京都最古の寺「広隆寺」に加え太秦映画村で知られる東映の撮影所も位置しています。映画『嵐電』はこの京福電鉄嵐山本線、通称「嵐電」を舞台装置に三組の男女の恋を描いていきます。監督は『ジョギング渡り鳥』の鈴木卓爾。(以下敬称略)

物語について
「行き違い駅」と書かれた小さな看板と、上り下りの最終電車がすれ違い静寂が訪れた夜の踏切に「最終電車が行ってしまったね〜」「これからは私たちの時間ね〜」という声が流れる不思議なプロローグで物語が駆動します。

このおとぎ話の始まりを思わせるナレーションにやや戸惑いを覚えつつ、私たちは次のシーンで昼間の「嵐電」を目にする事になります。電車が坂道の向こうから徐々にその姿を現しはじめると、観客はその存在感に胸を衝かれると同時に、どこか見知らぬ場所に自分を連れ去ってくれるような淡い期待に胸を膨らませるかもしれません。このシーンでアコースティックギターの音楽とともにやってくる井浦新のたたずまいが、このオープニングに実にフィットしていることに私は驚きます。

ただ、映画のストーリーをここで語っても仕方がありません。「日常」と「非日常」という異なる時間のすき間を縫って「昼の嵐電」と「夜の嵐電」が都大路の主に西側を走り回る映画とでも言っておけば良いのでしょうか。

重層的な物語を繋ぐキーワードは「狐と狸の電車」で、これは滑稽な衣装をまとった記憶のメタファーと言えるでしょう。「相思相愛の男女がこの電車に乗ると大切な記憶がどこかへ行ってしまう」という都市伝説が、三組の男女の恋愛を三様に彩っていきます。
年齢を重ねた夫婦(井浦新と安倍聡子)は、自分たちの感情がどこかですれ違ってしまったのかもしれないという不安を抱えながら思い出の中の京都を彷徨い、自分の殻に閉じこもり過去から抜け出せない女(大西礼芳)は、偶然出会った俳優(金井浩人)との「演技という虚構」の中に自分の存在を見いだしていきます。その過程でくだんの「都市伝説」はそれぞれのカップルを引き離し迷路へと誘い込む「記憶泥棒」として夜の京都を走ります。更に若い二人のカップルは、その「都市伝説(古いしがらみ)」から抜け出すように、海を照らす灯台のような京都タワーを目指し走り出します。

このように、一見まとまりの無い『嵐電』の物語は通常の時間軸に沿ったものではありません。『嵐電』について、時々「良く分からない」「難し過ぎる」という感想を耳にするのもこの辺りに原因があるのかもしれません。この文章を読んでも謎は深まるばかりです(笑)。
ただ、この物語は作家(井浦新)の一刻の夢であり、映画の中で映画を作るメタ映画であり、更には過去と未来を繋ぐ時間の物語でもあります。人は行き交い、時間は結び合い綻びワープします。ただ、それがどんなに突飛なシチュエーションであってもフィルムには確かな「感情」が刻まれ「リアル」な存在が私たちに何かを訴えかけてきます。それはとても初々しく懐かしく温かく、それがこの映画の尽きない魅力を引き出していることは言うまでもありません。人は変わり、変わる事を恐れとどまるものもいれば、新たに漕ぎ出すものもいる、それぞれの物語を「嵐電」がつないでいきます。
「はてしない物語」(M.エンデ)は別名「往きて還りし物語」でしたが、『嵐電』はその往還が三組の登場人物によってもう少し激しく複雑に作用します。「越境」という悪戯が悪びれる事無く軽々としたステップで行われる様は、ヌーベルバーグの初期の映画を彷彿させます。

俳優さんと役柄について
魅力的なキャスティングです。
平岡衛星・斗麻子(井浦新・安倍聡子)の二人は、静かな時間の中で互いの存在を確かめ合うように言葉を交わし、そのやり取りはざわめく心を鎮めてくれます。特に終盤の鎌倉の自宅、昼寝から覚めた場面での井浦新の表情はとても新鮮です。それを受け止める安倍聡子の演技も素晴らしいものです。

吉田譜雨・小倉嘉子(金井浩人・大西礼芳)のカップルはこの物語の中心で、最初のラブシーンは心をざわめかせるに充分な驚きと初々しさを伴っています。このラブシーンは、終盤の「二人の出演する映画を作る」シーンで再度演じられますが、二人の清潔感を持って初めて出来上がる美しい結晶のようなこのシーンを、再度「フィクション」として再現したところに監督の心憎い演出がみられます。そしてこの難しいシーンを暴力的とも思える演技で乗り切った大西礼芳にも瞠目させられます。

北門南天・有村子午線(窪瀬環・石田健太)
最も若いこのカップルの恋愛は、唐突な出会いと告白による悲喜劇の様相を帯びていますが、窪瀬環の一直線の演技が「これ(8mmカメラ)で好きな物を撮っていたのに、いつの間にかこれに映っているものを好きになってしもうた」という石田健太のしびれるような名台詞を引き出します。この場面における石田健太と井浦新の演技の独特の間はこの映画の特長といっても良いものですが、それは、助監督川口明輝尾役の福本純里と大西礼芳の帷子ノ辻駅でのやり取りにも引き継がれ、それぞれが私の心に大きな印象を残すシーンとなっています。

音楽についての個人的な思い出
あがた森魚という名前はある世代にとっては懐かしい響きを伴うものですが、私はこの映画を観る少し前にある女性のコンサートに行きました。そのコンサートで、硬質な世界観を持つその女性がなんと「最後のダンスステップ」をカバーしたのです。コンサートの半ばで披露されたその1曲は、彼女の世界観とのギャップがとても印象的でした。しかもコンサートが行われたのは日本で最も古い映画館の一つに数えられる「高田世界館」。そのコンサートのひと月後にテアトル新宿で出会った『嵐電』のエンドロールに流れる唄があがた森魚のものだと知った時は軽い興奮を覚えました。もちろん物語の扉を閉める曲として素晴らしい唄があることは、観客に対する幸福な贈り物以外のなにものでもありません。私はこの唄で何度も映画の余韻に浸ることができました。

書きたい事はもっと沢山ありますがあまり長くなっても仕方ないので、最後に一つだけ。
「一人の男がなにもない空間を横切る。それを誰かが見ている。そこに演劇における行為の全てがある」と言ったのは希代の演出家P.ブルックですが、映画においても「何が映画を成り立たせているのか?」は常に問われ続ける問題でしょう。メタ映画という構造はその問いを先鋭化します。「映画とは何か」という問いそのものが映画となっているのです。ただ、そのような先鋭な問いを物語という要素に落とし込んでみせた監督の手腕がこの映画を成功させた要因ではないでしょうか。
そして私にとっても、『嵐電』という映画を成り立たせているものは何だろうと考えるのは楽しい作業でした。それは京都という風土であり恋愛であり記憶の不思議であり、そして何より「嵐電」という存在でした。監督とスタッフの皆様、お疲れ様でした。次は叡山電鉄が待っています。(笑)


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