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日本のテルモピュライ-かじぃのポータル再訪紀6 岩屋城跡

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ある日、突然声が聞こえてきました。
???「かじぃのポータル再訪紀って、古代ばっかだよな」
そそそそそ、そげんこつぁなか!!
2の御陵橋だって、基本近代から現代だし?
4の庚申堂っぽい謎の社だって近代じゃん?

よぉし、そんなら近世近辺行こう。
戦国時代や戦国!
みんな大好き戦国や!
え?「戦国武将、福岡出て来ないやろ」
そんなことはないぞ!!

そんなこんな(?)で今回は高橋紹運公の話です。
高橋紹運。
うん、まぁ、マイナーな武将かもね。
分かりやすく説明してみますか。
豊臣秀吉に「東国一の武者」と言わしめた本多忠勝。
それに対を成すように「西国一の武者」と言われたのが立花宗茂。
この立花宗茂は関ヶ原の戦いで西軍についたにも関わらず、本領である福岡の柳河藩の領主に返り咲いたという稀有な武将でもあります。
立花宗茂の実父が高橋紹運。
血統の為せる業なのか、立花宗茂に負けず劣らず、実父の高橋紹運もまた猛将だったようです。

日本史の教科書にもあった通り、信長や秀吉が活躍した時代の九州というのは、3つの勢力に分かれていました。
この3つに分かれるまでもかなり面白いんですが、今回は割愛。
佐賀の龍造寺隆信、大分の大友義鎮(宗麟)、島津義久の三鼎の時代ですね。
高橋紹運は大友宗麟の家臣にあたります。
そんな高橋紹運公の墓地が、太宰府市の四王寺山(水瓶山)の中腹にあります。

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太宰府天満宮側から四王寺の酷道(いやほんと酷道なんすよ)を登っていくとこんな案内板に出くわします。

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岩屋城跡の案内板。
うん、岩屋城の概要としては十分でしょう。

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案内板の横にある遊歩道を登っていきます。

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遊歩道を登り切ると突然開けた場所に行き当たります。

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「岩屋城阯」の石碑。
「嗚呼壮烈岩屋城阯」と書いてあります。
どんだけ壮烈だったのか。
高橋紹運公の軍勢、700余名。
これに対する島津軍、5万名。
この岩屋城に籠もった高橋軍は14日間もの籠城戦を繰り広げ、島津軍に5000名前後の被害を与えた後、高橋紹運は自害、高橋軍は全滅しました。

ぶっちゃけ、むちゃくちゃです。
オレもこの数字を見た時に「ファッ?!」ってなりましたもん。
あの当時、天下でも屈指の強さを誇る薩摩の島津軍5万ですよ?
後の文禄・慶長の役で「鬼島津」と言われたあの島津軍ですよ?
5万に700で籠城戦仕掛けて2週間戦い抜いて、島津の損害が5000て。
なんだよそれ、まるでスパルタのレオニダス王じゃねぇか!って。
タイトルで「日本のテルモピュライ」とかでっかくぶちかましてしまいましたけど、戦力差は71倍。
確かに映画「300」に出てくるテルモピュライの戦いの戦力差、272倍には遠く及びませんし、そもそも戦いの規模自体が大きいわけではないですけども、それにしても寡兵700名が71倍の戦力差に進軍を遅延させるために籠城戦かまして全滅ってのはちょっと聞いたことがない。

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岩屋城本城城址から南方を望むと太宰府から筑紫野へ抜ける平野部が見下ろせます。
といってもめちゃくちゃ狭いです。
うん、福岡平野というのは、太宰府でキュッと狭くなっているんですね。
ここを抜かなければ、島津は博多に攻めのぼれない。
そんな地形です。

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景観案内板もあります。

この籠城戦、「岩屋城の戦い」があったのは天正14年7月。
西暦でいえば1586年。
この年に起きた出来事はと言えば、家康が秀吉の臣下になった年ですね。
この前年の1585年に秀吉が関白になっています。

この頃の九州は先程挙げた九州の覇を争った三傑による闘争に決着が着きそうな状況でした。
まずはじめに、福岡と大分で勢力を伸ばして調子こいていた大友宗麟が、日向の伊東家を助けるためにという大義名分で島津にちょっかいをかけます。
島津は当初は押されたものの、耳川の戦いで大友軍を打ち破り、大友は大きく勢力を落としてしまいました。

一方、佐賀を中心に勢力を伸ばしていた龍造寺隆信は、敷いた恐怖政治が原因で各地で反乱を招いてしまいます。
島原の有馬家は反乱したものの、龍造寺軍に勝てるはずもなく、島津軍に助けを求めます。
この時に島原へと助力に入ったのが島津家久(妖怪首さぁ置いてけ)。

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©「ドリフターズ」平野耕太

そして島原の沖田畷の戦いで、家久は釣り野伏という戦術を用い、龍造寺軍を壊滅させます。
ここでまさかの龍造寺隆信が討ち死に。
龍造寺も勢力を大きく減じてしまいます。

大友も龍造寺も勢力を減じた。
当然、島津は九州平定を狙います。
勢力は削がれたものの、まだ生きている大友宗麟はここで豊臣秀吉に「タスケテー」と助力を請います。
秀吉はこれを呑み、九州へと先遣の軍勢を送るのですが…。
豊臣軍が到着するまでに九州を平定し、既成事実にしてしまいたい島津軍。
豊臣軍が到着するまで、なんとか持ちこたえたい大友軍。
その決戦の舞台が太宰府の宝満城、岩屋城、そして福岡市の立花城でした。

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岩屋城の主城へと登る遊歩道の入り口から10mほど車道を北側に向かうと「高橋紹運公の墓」への入り口があります。

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うわ、しばらく来てなかったらめっちゃ苔むしてるやん。

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ガードレールがと切れたところから遊歩道を下っていきます。

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夏はやっぱ緑が元気ですね。
先が全然見えんし。

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で、ぐーっと下ること徒歩2分くらいで高橋紹運公のお墓に着きます。

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ん?ポータル名が「高橋紹雲公之墓」ってなってますね。
雲じゃないですよ。運ですよ。

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墓地の前にはこんな看板が。
2015年頃にはこんな看板立ってなかったような気がするんですが。
なんかあったんでしょうか。

岩屋城での壮絶な籠城戦の後、宝満城は島津軍に降伏して開城します。
島津軍は更に北上、福岡市東区の立花城を攻めます。
西国一の武者と謳われた城主、立花宗茂は降伏勧告を受諾したと見せかけて強襲を行う「詐降の計略」で島津軍を翻弄し、8月下旬の豊臣軍上陸まで時間を稼ぎ切ったと言われています。
これにより島津軍は一時撤退。
豊臣軍と島津軍の戦いに発展していくわけですが、翌年の天正15年(西暦1587年)には島津義久が豊臣秀吉に降伏しています。

戦線は崩壊したものの、サラミスの海戦の準備が間に合い、最終的にはギリシアが勝利したペルシア戦争のテルモピュライの戦いにちょこっと似てますね。
うん、「ちょこっと」くらいだけど。

高橋紹運公の首塚は筑紫野市二日市にあります。

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あ、ギリギリ見えないwww

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Street Viewを見れば分かるのですが、日蓮宗の妙音教会に入る私道っぽい道の傍らに「高橋紹運首塚伝承地」があります。

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公道からこんな坂道をあがっていきます。
般若坂だと言われているんだとか。

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妙音教会のロータリー入り口のちょい手前くらいの場所にそれはあります。
道はロータリーの入り口で、あぜ道のようなひどく細い未舗装の道に変わっており、怪しい動きはしないほうがいいような気がします(;´Д`)
ちなみに妙音教会もポータルになってんなこれ(;´Д`)
大丈夫か(;´Д`)

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首実検の後、高橋紹運の首はここに埋められたという伝承が筑前続風土記に残されているようです。

高橋紹運辞世の句
流れての 末の世遠く 埋もれぬ 名をや岩屋の 苔の下水




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