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[cakes]世界が偽物だという感覚

cakesに載せていた記事を移転しました。小さい頃、この世界が全部作り物のような気がしていた、という話です。

(2013年10月12日)

小学校低学年くらいの頃、毎晩眠るときに布団に入って天井の木目を見上げながら、「死にたくない、死にたくない、どうか不老不死にさせてください。あとついでに未来から突然ドラえもんがやってきていろんなひみつ道具を使わせてください」と何かに対して祈っていた(その当時はドラえもんがとても好きで自分の考えたオリジナルのひみつ道具を考えたノートを作っているような子どもだった)。小さい頃はあまり楽しいことがなかったせいか覚えている記憶がそんなにないのだけど、とても死ぬのが怖かったということだけはよく覚えている。自分という存在がいつか消えてしまうということが怖かったし、信じられなかった。不老不死で全知全能の存在になりたかった。いや、なりたかったというより、そうでないことが受け入れがたかった。

その頃、もうひとつよく考えていたのは「この世界は全部作り物なんじゃないか」ということだ。どういうことかというと、この世界は全部どっきりカメラのセットのようなもので、この世界が本当だと思って生きているのは自分一人で、自分以外の人間は自分を騙すために役割を演じているだけで、自分の見ていないところではみんな役割を演じるのをやめて休憩したり、どこかに仕掛けられているカメラで僕のことを監視しながら「あいつうまく騙されてやがるな」とか喋ってるのだ、という妄想だ。

今はその妄想が何を意味していたのかが分かる。そんな風に思ってしまうのは「この世界は自分だけのためのものではなく、自分以外の人間も自分と同じように意識を持っている。自分はたくさんいる人間の中の一人にすぎない」ということをうまく受け入れられなかったからだ。

幸いなことに成長するにつれてこの世界の仕組みにも少しずつ慣れていき、そうした妄想に取りつかれることも少なくなった。渋々とだったかもしれないが、この世界で自分は特権的な存在ではなく、自分以外の人間も意識を持っていてそれぞれの人生では主観的にはそれぞれが主役であるらしいということを、受け入れていった。

それは同時に、自分が全知全能になれないことも否応なく知らされることでもあった。小さい頃から図書館に行くのが好きだったんだけど、本を読んでいくうちに、いくら読んでも読んでもまだ読んでない本は際限なくあって、一生かかってもこの世に存在する全ての本を読むことができないことに嫌でも気付かされることになる。

さらに、大きくなって心理学だとか社会学などの文系の学問の本を読んでいくと、どうやら真理というものが一つではないということも知ってしまう。数学や物理学などの自然科学では正しいものはただ一つだけど、文系の学問では対立する意見のどちらにもそれなりの正しさがあって、どちらが正しいとは決められなかったりするのだ。

「どの立場からそれを論じるか」によって何が正しいかは変わってしまう。そして立場というのは本当に人間の数だけ多様に存在するのだった。金持ちに見えるものと貧乏人に見えるものは違う。じゃあその両方を知りたければ金持ちと貧乏人の両方を体験すればよいかというとそれもダメで、それは「金持ちと貧乏人の両方を体験した人の視点」に過ぎず、「ずっと金持ちの人の視点」や「ずっと貧乏な人の視点」とは違ってきてしまう。そうすると一人の人間が全ての視点、全ての正しさを理解することは不可能だ。そこに思い至って、僕は自分が全知全能になれないことを知ると同時に、この世界が作り物じゃなくて自分以外の人間がたくさんいてよかったと思った。

人間の数だけそれぞれ違う人生があるし、人生の数だけそれぞれ違う視点や思考や思想がある。その総体がこの世界だ。自分一人では体験できないことを、たくさんの人間がいるから他の人に体験したり考えたりしてもらうことができる。自分一人の感覚器官や脳神経系では処理できない膨大な情報を地球上の数十億の脳が分散コンピューティングで考え続けている。そう思ったら少し気が楽になり、死ぬのが少し怖くなくなった気がした。

別に自分が全知全能の存在になる必要はなかった。自分はネットワーク上に無数に存在するノードの一つとして自分に見える範囲のものだけを自分に与えられた処理能力で処理していけばいい。そして自分が見たこと聞いたこと考えたことの組み合わせは全て自分固有のもので誰ともかぶることはない。全ての人生はその人固有(unique)なもので意味がある。

そう思うと自分の人生は全て肯定されるような気がした。生きるにあたって生き方の正解なんてものは分からないけれど、自分は自分の判断能力の範囲でしか生きられないんだから、まあどんな風に生きて行ってもいいか、他人の考えた生き方が自分に最適だとは限らない、自分の考える通りや感じる通りにやるしかないだろ、と、人生のいつからか思うようになって、生きるのが少し楽になった。

僕がブログなどで自分の考えていることを書いてインターネット上に発信し続けているのも、自分が固有に考えたことや体験したことをネットワーク上で共有することが、何かネットワーク全体の「足し」になるんじゃないかと思っているからだ。自分が死んでも他の人は生き続けていろんなことを考え続けるし、種々雑多なミームを取り込みながらネットワークは拡大膨張し続ける。世界はずっと終わらないで続いていく。

しかし世界が終わらないというのも嘘かもしれないとも思う。そのうち何十億年かしたら太陽が膨張して地球は破滅するだろうし、それ以前に何かの天変地異や疫病などで人類が滅びる可能性はある。僕が考えた「自分が死んでも世界は続いていくから少し安心だ」みたいな感覚は、まだ人類が滅亡することなんて想定できない21世紀初頭の人間特有の呑気な感覚に過ぎないのかもしれない。何十万年か何十億年後、人類が滅びに瀕した時にそのとき生きている人間は人生の何に意味を見出すのか、世界はどんな雰囲気になるのかそれはすごく興味があるのだけど、それを自分で見届けられずに死んでしまうのは残念ではある。

まあどの時代に生まれても個人が見届けられるものには限りがある。行ったことのない地球の裏側の国や、一生入ることのないだろう隣町の小さな路地の奥や、数十億年先の地球の滅亡や、数百年前の帝国の興亡や、論理的には存在が証明できない5分前の世界や、実際には存在しない虚数空間などを、空想して楽しむことができるということに感謝して、今回の人生の中で見られるものをできるだけたくさん見てから死んでいこうと思う。


購読者向けに追記を少し書いておきます。

(2022年7月22日)

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