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6月11日(月)〜15日(金) バベらない世界

6月11日(月)

雨。編集者の人と近所でアルザス料理の店でランチ。ロールキャベツのいいやつを食べる。近況を聞いたり仕事の話をする。
家に帰ると友人が来ていた。社会は大変だという話と電子タバコの話をする。

夜、南阿佐ヶ谷にある枡野浩一さんの仕事場の枡野書店に行く。仕事場を週一回開放しているらしい。そういうスペースには興味がある。本がたくさんあってよい空間だった。
枡野浩一、佐々木あらら、佐藤文香という、短歌、俳句関連の人間で話す。文章書くときの話について聞いたり、村上春樹の新作に出てくる短歌がひどいというのを見たり。ちょっと喋って近所の飲み屋に行く。なんかいろんな話を聞いたけどあまり自分からは話さなかったな。周りが喋る感じだとそうなってしまいやすいけど、もうちょっと自分が何を考えているかを紹介したほうがいいとあとで思った。みんなが僕のブログやツイッターを欠かさず読んでいるわけじゃない。

小説ぽい文章を書こうとしても、ちゃんと登場人物紹介とか設定とかをするのがめんどくさい、みたいな話をちょっとだけした。
小説だと、主人公=作者とはそんなに思われない。私小説のように主人公=作者を前提としている小説もあるけれど。
短歌や俳句といった短詩形文学では、主人公=作者、書いていること=作者が思っていること、みたいなのを想定した上で読むという暗黙のルールがあったりする(なので明らかに虚構の内容を書いたりすると物議をかもしたりもする)。
なので短歌や俳句みたいな形式で表現することに慣れているといわゆる小説ぽい文章を書きにくいのではないか。僕がわりとそうなんだけど。小説ぽい文章を書こうとしてもそのへんで詰まってしまう。ブログはわりと短歌とかに近くて、書き手が誰でどういう人間かは読んでる時点でわかってるだろ、って感じで自己紹介なしに、書き手の主観でがんがん書いていける。日記もそう。
まあ僕が普段小説を読むとき登場人物の職業の紹介とか服装の紹介とかかったるくて読み飛ばしてしまうほうだからかもしれない。あれ好きな人は好きなんだろうけど。中島敦の「山月記」の「性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった」みたいに一行でサッとかっこよく人物紹介できたらいいのかな。

枡野さんが「穂村弘さんが『最初は僕も叩かれてたけど、枡野さんが出てきたおかげで、枡野より穂村のほうがマシだとか言われて、どんどん短歌界に僕の居場所ができていった』と言ってたんだけど、ひどくない?」と言ってて面白かった。
穂村さんも最初は叩かれまくっていた。それは、ポップなイメージや虚構がガチャガチャと詰め込まれている作風で、主人公=作者、書いていること=作者が思っていることみたいなのがうまく想像できない感じだったからだ。「作者の人間性が感じられない」とか「最近の若者は何を考えてるかわからん」とかめっちゃ言われてた。
例えば寺山修司の短歌なんかも虚構的な感じで、誰かが穂村弘と寺山修司を繋げて論じていたりしたけれど、穂村弘はもっとポップで威厳がないので叩きやすかったのはあるのだろう。そしてそれよりも枡野浩一のほうが平易な分もっと叩きやすかったのだろうけれど。結局そういう叩きは狭い村の中の話なので、一般の人に届いてしまえば何でも良いとは思う。
ほむほむの『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』以来の17年ぶりの歌集、『水中翼船炎上中』はまだ読んでないけどどんな感じなんだろ。今アマゾンを見て知ったんだけどまみってキャバクラ嬢だったの。

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