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[個人史]まともに働きたくない人たち

こないだ出した『人生の土台となる読書』用に書いたけど、使わなかった原稿です。本筋に関係ないMNPの話を長々と書きすぎてるな。なんか書きたい気分だったのだ。

 会社を辞めてタイから日本に帰国した僕は、生まれ育った関西を離れて、とりあえず東京に向かった。
 東京で特に何かしたいことがあったわけではない。だけど、一生で一度くらいは東京に住んでみたい、と思ったのだ。
 荷物は大きなリュックに入るだけしか持ってこず、ゲストハウスに何ヶ月も住み続けた。東京に住むのは初めてだったけれど、ブログやツイッター経由の知り合いはたくさんいたので、遊ぶ相手には困らなかった。
 東京のいいところは、普通に働いていない、何をやって生きているかわからないうさんくさい人間がたくさんいるところだ。田舎で無職でぶらぶらしていると目立ってしかたがないけれど、東京だとそういう人間がたくさんいるので心強い。
 会社で働いているときは全くできなかった友達が、ネットを始めた途端にたくさんできた。僕は自分と同じような無職の人間をたくさん集めて、遊んだり情報交換をしたりするようになった。世界ってこんなに楽しいものだったんだ、と思った。

 その頃、まともに働きたくないダメ人間たちのあいだで流行っていたのは、携帯電話のMNP(モバイル・ナンバー・ポータビリティ)制度を利用したお金稼ぎだった。
 MNPというのは携帯電話番号を変えずにキャリア(携帯会社)を変更するシステムだ。
 当時は、MNPを使ってドコモ、au、ソフトバンクの3つの中で、半年ごとに転々とキャリアを変えるだけで、現金で数万円のキャッシュバックがもらえたのだ。ついでにスマホがタダ同然でもらえることも多かった。
 無職界隈の先輩は、家族名義も含めて20回線くらいの電話を契約していて、その全てを半年ごとにキャリア変更することで、年間に百万か二百万くらいを稼いでいた。もちろん電話として普通に回線を使ってるわけじゃない。契約するとすぐにSIMカードを抜いて、本体は買取業者に売ってしまうのだ。
 そんなに楽に稼げるならやってみよう、と思って、僕もそれを真似していた。でも、僕は使わない携帯電話を大量に契約するのにちょっと後ろめたい気持ちがあったのと、契約の際に携帯ショップで長い説明を聞くのが苦手だったので、4回線くらいを気が向いたときにMNPする、というくらいだった。それでもよいお小遣いにはなった。
 なぜそんなことでたくさんのお金がもらえるのか。それはほとんどのユーザーは面倒臭がってキャリアを変更しないから、キャリアは契約回線を増やすためにキャッシュバックを出していたのだ。
 しかしこれもおかしな話で、契約を増やしたいなら携帯料金を他社より値下げすればいい。でも、本当はもっと携帯料金は安くできるはずなのに、談合的に携帯料金は高額にとどめたまま、キャッシュバックという飛び道具でユーザーを奪い合っている。
 バカみたいなしくみだな、と思った。携帯料金を安くしたほうがみんな幸せになるはずなのに。しかし、いったんそういう構造ができてしまうと、もはや大手三社のうち一社だけがキャッシュバックをやめるということもできないのだろう。
 世の中にはそんな、非効率的でおかしいけど昔からのいろいろな事情でそうなっている、という商売がいっぱいあるのだろう。そんな世の中の非合理な部分の隙間を縫っていけば、真面目に働かなくてもなんとか生きていけるのかもしれない、と思った。
 キャッシュバックのついでにタダ同然でもらったスマホは、未開封のまま、新大久保の雑居ビルにある、外国人がやっている買取業者に売りに行っていた。ここで買い取られたスマホは海外に輸出されるらしい。そんなよくわからない社会の裏側でも経済は回っているんだな、と思った。
 この不毛な高額キャッシュバック合戦は、総務省の指導が入るまで続いた。 

 ときどき、お金を稼ぐために薬の治験にも行っていた。開発中の新薬を飲んでデータを取ることでお金をもらえるというやつだ。
 「それって人体実験? 危険じゃない?」とか言われたりするけど、ちゃんとした医療機関がやっていて、安全性は確保された薬ばかりだ。世の中の薬は全部、この治験をしてからじゃないと発売できないことになっているので、絶対に必要な過程なのだ。 
 治験は、病院に行ってひたすら寝ているだけでお金がもらえるのでラクだった。食事も三食ちゃんと出てくるから食費も浮く。病院だから健康的な食事が出るのかと思うと、毎食がっつりとしたオリジン弁当だったりするのだけど。
 入院中はやることがないのでずっと漫画を読んでいたりインターネットを見ていたりしていた。期間中は外に出られないのと、一日に何度も採血されるのがちょっとだるいけれど、それでもまともに働くことに比べれば大した苦痛じゃない。行って3日くらい入院すると7万円くらいもらえたので、年に2、3回行っていた。

 無職時代に一番熱心にやっていたのは、古本のせどりだった。
 古本をブックオフで買ってきて、アマゾンで売るという、それだけのお仕事だ。初期投資もいらず誰でもすぐに始められるので、当時、無職たちのあいだで流行っていた。
 せどりは趣味と実益を兼ねていた。無職で時間が有り余るほどあった僕は、暇さえあればブックオフに行っていたのだ。
 ブックオフは立ち読みが自由なのが素晴らしいところだ。漫画を立ち読みすれば無料でいくらでも時間を潰せる。そして、読みたい本を立ち読みするついでに、せどりで売ると利益の出る本を見つけては仕入れていた。
 価値はあるけどマニアックなので、ブックオフの片隅で誰にも買われずにずっと眠っている本。そんな本を拾い上げて、日本のどこかでその本を探している人に届けるというのは、そんなに悪くない仕事だと思った。MNPよりは人の役に立っている感じがする。 会社の仕事が続かなかった僕がせどりは続けられたのは、誰とも関わらないでよかったからだ。
 上司も同僚もいないし、お客さんとも対面しなくていい。決まったスケジュールは全く無い。気の向いたときにブックオフに行って、注文が来れば発送する。ただそれだけだ。
 とにかく誰ともコミュニケーションをしなくていいのがよかった。僕が働きたくないと思っていた理由の大部分は、人と関わるのが嫌だったのかもしれない。

 あの頃のブックオフは本当に楽しかった。
 何かつまらないとき、特にすることがないときにはいつでもブックオフに行った。ブックオフには何か面白い掘り出しものがあるかもしれないというワクワク感がいつもあった。働きたくないけど特に何かしたいことがあるわけでもない、どうしようもないダメな自分を、ブックオフはいつも優しく受け入れてくれた。
 そんな風にブックオフに思い入れのある僕にとって、『ブックオフ大学ぶらぶら学部』(武田砂鉄、山下賢二、大石トロンボ、小国貴司、Z、佐藤晋、馬場幸治、島田潤一郎)は、まさに自分のために書かれたような本だと思うくらい、面白い本だった。

 この本はさまざまな人たちがブックオフに対する熱い気持ちを語ったエッセイ集だ。
 ライターの武田砂鉄さんは「ブックオフは体調が悪いと楽しめない」と言う。わかる。新刊書店と違ってブックオフは、混沌の海に潜って宝を探し出す気力や体力が必要なのだ。
 出版社代表の島田潤一郎さんは「ブックオフはまるでセーフティネットのようだった」と語る。これもとてもわかる。二〇〇〇年代前半、お金がなくて時間だけはあり余っている文化系の若者はみんなブックオフに通いまくって、そこでカルチャー成分を摂取することで生き延びていた。
 そして、せどりをやっていたことがある僕が一番共感したのが、せどらーのZさんが書いた「ブックオフとせどらーはいかにして共倒れしたか 〜せどらー視点から見るブックオフ・クロニクル」という文章だった。

ブックオフへ行く方なら、携帯を握りしめて、カゴを本でいっぱいにしている、うさんくさい奴らを一度ならず目にしたことがあるでしょう。あれが我々せどらーです。誰よりもブックオフへ足繁く通い、誰よりもブックオフで長居し、誰よりもブックオフで本を買うにもかかわらず、誰よりもブックオフで疎まれる存在です。
P60

 この文章はブックオフでせどりをするせどらーの観点から、ブックオフが創業した1990年から2020年頃までの約三十年の変遷を描き出したものだ。

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