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なくても結構生きられる

noteのマガジンの審査に時間がかかっていて日記の更新が滞っているため、繋ぎとして過去に書いた文章を載せておきます。「PHPスペシャル」2016年1月号に寄稿したコラムです。

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「普通」から外れること

会社を辞めて無職になるときは勇気が要った。辞めたあとにどうやって生きていくかというあても全くなかったし、これはいわゆる「普通の生き方」から外れることだという自覚があった。

ただ、会社勤めというのが自分には極度に向いていないというのはそれまでの数年間で痛感していた。どうせこのまま何十年も勤め続けるのは無理だ。そうだとしたら辞めるなら早いほうがいい。そんな気持ちで思い切って辞表を出した。

その後、無職の状態でひたすらブログを書いていたらブログをきっかけにして文章を書く仕事が来るようになったりして、今はなんとかぎりぎり暮らせている。飛び込んでみれば意外と人生なんとかなるものだと思った。

会社を辞めて東京に来てからは、友達を集めてシェアハウスで共同生活をしている。シェアハウスに住んでいる理由は、一人暮らしも寂しいけれど家族というものにも苦手意識があるからだ。子供の頃から家族というものに居心地の悪さや違和感をずっと感じていた。シェアハウスもそれはそれで面倒なこともたくさんあるけれど、家族よりも良いのはいろいろ拗れたときに出て行ったり解散したりしやすいところだ。

多分、家族を作って会社に勤めるというのが社会では多数派の普通の生き方だろう。それはそれでいい。会社や家族というのはやっぱりよくできた仕組みだし、便利だ。

ただ、人間の社会ではどんな模範的な基準を作ってもそこからはみ出す部分が出てくるものだ。ちゃんと会社に勤めなきゃと思っていたらブラック企業に身を捧げすぎて消耗してしまったりとか、ちゃんと家族で仲良くしなきゃと思っていても仲違いが起こってドロドロの争いになってしまったりすることがある。だから、たとえ標準的な枠組みからはみ出したとしてもある程度なんとかなるような、オルタナティブな仕組みがいろいろあるほうが人に優しい社会だと思っている。

「普通」とか「平均」とか言うけれど、普通の家庭に育って普通の容姿を持って普通の会社に勤めて普通の死に方をするような、完全に普通で平均的な人間なんていない。完全に模範的な人生は存在しない。

与えられた「普通」をひたすらこなすだけならロボットでもできるだろう。人間の面白さというのは「普通」の枠から外れたそれぞれの人の「変」な部分に出るものだし、人が生を最も濃厚に感じるのも一般的な「普通」から外れて自分なりの「変」なことをするときだ。

生き方を道路に例えると、多分「普通」というのは真ん中に真っ直ぐ走っている五車線くらいの整備された広い道路だ。その脇には未舗装で土がむき出しの部分があって、その外側は草むらになっている。そして一番外側に広がっているのは深い森だ。

多くの人は真ん中の舗装された道を歩いている。だけど、一生ずっと道路のど真ん中だけを歩いていく人はいない。ときどき左に寄ったり右に寄ったり、土の部分を歩いてみたり、草むらや森に入ってみたりすることもある。そして人生の面白さというのは、どれだけ進むかということよりも、たまに土や草を踏んで歩いてみたりとか立ち止まって道端の花を眺めたりとか、そうした「寄り道」のような部分にあるんじゃないだろうか。

ただ、「寄り道」が楽しいといっても森の部分にあまり深く入りすぎると、遭難したり崖から落ちたりする。だから真ん中の道路から外れてもいいけど外れ過ぎないように加減することも大切だ。たまにそういう「けもの道」ばかりを歩いていくのが得意な人もいるけれど……。

「普通」というのは従うと楽なことも多いけど、「普通」でいなきゃという気持ちがあまりに強すぎるとその規範が人を圧し潰してしまうことがある。だから、「普通」というのは、「やりたいことがないときにとりあえず従っていれば便利なもの」とか「そこから外れて寄り道を楽しむためにある出発点」とか、それくらいに考えておくのが良いと思う。

手放す快楽

あと、僕が職業や一緒に暮らす相手が流動的な生活をしているのは、なんか二、三年に一度くらい、「ウワーッ、なんかだめだ! こんなことしてる場合じゃない! 別のことをしなきゃ!」という気分になるというせいもある。

多分極度に飽きっぽいのだろう。まあ僕は極端な方かもしれないけれど、そうした「現状に飽きる」という性質は人間みんなが多かれ少なかれ持っているものだと思う。

人はどんなに満たされた満足な状況でもずっと同じ状態でいると飽きてくる。「これが欲しい」とか「こんな風になりたい」とか思って頑張っているうちは楽しいけれど、いざそれを手に入れてしばらくするとまた現状に物足りなくなってきて別のものを求め始めたりする。

人間は変化を必要とする。だから、得ることや積み重ねることだけじゃなくて、捨てることや手放すことが大切なのだ。

何かを得ることや成し遂げること、作り上げることの楽しさや充実感はあるし、世間一般的にはそちらのほうが大事だと説かれることが多い。でも、それとは逆の、捨てることや手放すこと、壊すことや道を外れることの爽快さもある。砂場でお城を作るのも楽しいけど、でき上がったお城をグシャッと踏み潰すのも作り上げることに劣らず楽しい。

多分人生には「流れ」というものが必要なのだ。何かを得た瞬間は気持ちいいけれど、得たものを溜め込んでいるとだんだん空気が淀んで息苦しくなってくる。だから流動性を復活させるために、ときどき持っているものを手放したり壊したりする「リセット」が必要になる。

何十年も生きていると、何度も同じことを繰り返しているなあ、という気分になることも多い。例えば、何かに興味を持って近づいていっては飽きてまた離れたり、誰かと仲良くなったと思ったらそのうち疎遠になったり、決められた道を歩くのに飽きてちょっと寄り道をしてはまた元の道に戻ったり、人生はそんな繰り返しの連続だ。まあそんなことを言ったら人類の歴史だってそんなものだし、宇宙の歴史だって同じようなものかもしれない。

同じところをぐるぐる回っているようで実は螺旋状に少しずつ進歩していてそのうちどこかに辿り着くのだ、みたいなことを言う人もいるけど、そうなのだろうか。まあどちらでもいい。何かを得ては何かを捨てる、何かに興味を持ってはそのうち飽きる、何かを積み上げてはリセットをする。そうしたサイクルを何度も繰り返しているうちにそのうち体が弱っていって人生が終わる、そんなものだろうと思っている。

「得ては捨てる」「興味を持っては飽きる」というサイクルから抜け出ることは多分できない(それは人間の本質的な性質なので)。だとしたら「得る快楽」「捨てる快楽」など、そのサイクル自体を十分に楽しむしかないだろう。

ただ、抜け出ることはできないけれど、そのサイクルを早めることはできそうだ。飽きたものはできるだけ早めに捨てるようにしたほうが、早く次のサイクルに進めるので、限られた時間の中で多くの濃い体験をできる。

そう考えると物を捨てたり手放したりするのが少し楽しくなってくる。とりあえず、今部屋の中で一番要らないと思うものを今すぐ捨ててみてはどうだろうか。近所に迷惑をかけない範囲で無茶苦茶に破壊してみるのも良いと思う。スッキリします。

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