北の魔女が死んだ
「時間ある時、電話してもいい?」と母からラインが入った。
用件をラインしないと言うことは何かあったんだなと察した。なにか実家で動きがあったのかな。
電話の用件は「お婆さんが亡くなった」
亡くなった祖母はよく歌いよく喋りよく怒る人だった。
「死んでやる」が口癖の、絶対長生きするタイプの人。
私も小学生の時は純粋に「死なないで」とおいおい泣いたが流石に高校生くらいの時は「いつものやつや」と受け流せる程度になった。
自分語りが好きな祖母の語る祖母の生涯は、なんともとても苦労したそうだった。
漁師の家に生まれ
働きながら看護婦免許をとった
旦那は九州の生まれで青森とは味付けが違うから盆や正月は「青森風」と「九州風」の2つは絶対作らされた、
2人目の子が障がいがあり、奔走した。
中年期は旦那が癌に侵され
心労で一晩のうちに髪の毛は白くなり
闘病の末先立たれた。
晩年兄や弟に先立たれ「次は私だ…」と毎年のように言ってた
よくヒステリックを起こす祖母だったが
愛情深い人だった。
私は祖母の作るしょっぱい五目ご飯が好きだった。誕生日には絶対作ってくれた。「本当なら祝いの席は赤飯だ」どぶつくさ言いながら(私は赤飯が苦手)五目ご飯と唐揚げを作ってくれた。
洗脳のレベルのマシンガントークをする祖母が苦手だったが、このノートを書き始めて祖母がきっと抱えていただろう生きづらさがぶわっときた。
完璧主義が故に他人にも求めてしまうし、愛情表現がへったくそで、見返りを求める。
なんか私もそんなところあるなぁ。血は争えないんだな。顔もどちらかというと父方に似てる。眉間にシワを寄せた顔なんてそっくり。
毎日のいう「明日死ぬ」が口ぐせだったから、この婆さんは一生死なないと思っていた。のに入院して1週間くらいであっさり亡くなった。
祖母は不器用でぶっきらぼうで言葉に棘がある人だったが嫌いにはなれない。でも素直に好きにもなれない。
それだけちょっと苦しめられてきた。
でも亡くなって数日経つ今も全然開放感などない。
人が亡くなって終わる問題などないのか。
心にもやもやを刻印されたような気分。
そして私は誰からも好かれたいと思っていたけど、素直に好きという感情を持っても良いような人になりたいんだなとはたと気づいた。
次帰省したらお墓まいりに行こう。
念願のお墓と、祖父の隣はどんなものか聞いてみようかな。
きっとまだまだこの世をうろうろして
「くそくれッ!顔出しに来ないなんて祖母不幸ものめッ!!」って怒鳴ってるんだろうな。
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