揶揄とフェチズム

私は現在も研究活動をしているわけで、今まで様々な学会や研究会で発表や、拝聴をしています。
今回は、そんな場で出会った有識で多分社会的身分階層の高い大人たちの悪口を言います。


※注意事項
私は人を育てる立場にあり、やわらかくてみずみずしい思春期の子どもたちと関わっています。
ですが私の人間性はドブです。良く言ってもドブの上澄みです。
チャイムに支配された環境でないと、思考と語の治安が悪くなってしまいます卍卍


それを踏まえ、これから口汚い言葉を吐き捨てていくことを御承知おきください。




さて、ここで私が提唱したい説(悪口)は「ご年配女性 自己開示好きすぎ説」です。


学会などで、素晴らしい発表を聞いた後に必ずあるのが発表者への質疑応答

その日もまた、よくわからないデザインのジャケットを着た婦人が挙手をしました。


「あ、それでは私から失礼します。あの、●●先生の発表大変素晴らしく〜〜〜〜…私も××県で教師をしていた時は〜〜〜〜…そして今日の子どもたちは〜〜〜〜…。しかし●●先生のようにご尽力くださる方がいてくださり大変嬉しく〜〜〜〜…私自身、身が引き締まる思いで〜〜〜…それではお聞きしたいのですが〜〜」


質問に入るまでに、1分以上のスピーチ


私の脳内首脳会議では野次の嵐

「質疑応答はみんなの時間だー!」
「誰もお前の話は聞きに来てないぞー!」
「個人的に言いに行けー!」 「いや、BBAの自己紹介なんてそんな聞きたくないだろー!」
「そんなに言いたかったら文をしたためろー!」
「お前の自己紹介がなかったらあと1人質問できたぞー!」


私はこの現象を「BBAワンマンショー」と呼んでいます。

そしてだいたいこういった前置きが長い人に限って、有益な質問ではない。
これは5%水準くらいで有意差があると思っている(*p<.05)



そしてこの雰囲気は、同じ空間で伝染するようです。

似たようなワンマンショーがゲリラ的に多発します。


この現象のことを「老害フェス」と呼んでいます。
こちらにレスポンスは求められない。コール&セルフコールのフェス


そしてこの手のアーティストたちは、若手の発表になるや否や、その発表者への質疑や感想ではなく、自分の持っている知識の誇示(あんたこんなことも知らないの? または 私の時代はね)になるのです。



私も学会発表をした時に、全く意図を汲むことが出来なかった(未だに未解決)、質疑応答を受けたことがあります。

その時、言えることは1つしかありませんでした。


「ああ、なるほど・・・。〜〜に関してはおっしゃる通りだと思います。ですが本研究の目的は×××を明らかにすることですので、それについては調査していません。今後の課題と致します。ありがとうございました。」


この対応をキャッチボールで例えるなら、投げられたボールをしっかり取って、自分の足元に置いてアルカイックスマイル、といった感じ。

なんか投げられたけどよくわからないし、投げ返す気もないし、いらないから置いておくね。っていう感じ。



さて、ここまでが導入です。
本当に言いたいことは、婦人たちへの悪口ではないのです。


私は「対話が好き」という愛についてなんですね。


私は!  対話が!  好き!!


先述したワンマンショーもフェスも、内容的なコミュニケーション(相互作用)がほぼない。
対話に見せかけた発話。一方通行。

そうじゃなくて
複数の発話が重なって、反発して、同調して混ざり合って
混ざり合ったら、分離するものも見えてきて、全然違う方向に進んだり、ぐちゃぐちゃ進んだのに、元居た場所に戻ってきたり
時間差で、「いや、でも…」と自分の考えの矛盾を見つけたり


そういう相互作用のある対話が!好き!!なのです!!!

だから声高々に、誰に向けた熱なのかわからない発話は美味しくないのです。


このような大人の発話的なんちゃって会話を、心の中で「オナニー」と揶揄しています。
「独り善がり」とは実に的を得ている・・・



「発話だけの会話」は、小学生男子あたりがよくしています

少年A「昨日さ、夜さ、ポケモンしてさ」
少年B「俺、サッカーだった」
少年C「スイッチ欲しい〜」
少年A「ランクがさ、アイテム使ってさ〜…」
少年C「スマブラして〜!」


全部発話。前の人の意見に付け加えたり、批判や矛盾点を指摘したり、総括をしたり、気になって質問をしたりという対話的な重なりがない。


これは、子どもだけじゃなく、大人でも主張したいことが多い状況で起こりやすい。
生産性の低い会議や、愛(という皮を被った自己顕示のための情報)があふれたオタク同士の会話など。
こういう会話も、やっぱり美味しくないし、消化不良を起こしちゃう。



まとめですが、
私は「対話」が好き。そのトピックが「性」だと尚更大好き。
そしてその対話で「ジレンマ」と出会えたら、もう大興奮。


だから、私の目指す性教育の隠れたねらいには、「性に関する対話を通したジレンマとの出会い」があるんです。

ジレンマに出会うことで、自分の考え方が広く深くなるなあと思うわけです。それを、性に関する教育の中でトレーニングさせよう・・・と

もちろん隠れたねらいなので、これが目的になることはないですが。


あと、私のフェチズムで、ジレンマと出会って「う〜ん…」ってなってる人がとても好きなんです。冷静な感じで相槌を打っていても、頭の中は大興奮のお祭り騒ぎ。
なので優柔不断な人は嫌いじゃなかったり。逆に、考えることを放棄する人はあまり面白みを見出せない。そのこと自体が良くないわけではないけど。

私は興奮しない。という話。



以上、私の身近な美味しくない大人を見たからこそ色鮮やかに浮かびあがった私の性教育の方針とフェチズムでした。


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