どうか、みんな、無事でいて。

世界が壊れ始めているとうっすら認識したのは、トイレットペーパーが店から消えた頃だった。

たまたまその直前にトイレットペーパーを買っていたため、幸運なことにその騒動に巻き込まれることはなかった。
一時的に品薄になっても供給が滞ることはないと言われていたから、そのうち落ち着くのだろうと思っていたが、不安が不安を呼ぶのか、はたまた熱心なトイレットペーパーコレクターになってしまった人がいたのか、なかなかすぐには元通りにはならず、買い物に行く度に「お一人様一点限り」という張り紙が掲げられた空っぽの陳列棚を見て、今トイレットペーパーがなくなりつつある人は本当に大変だなどと思っていた。

そんなある日、たまたま入荷直後だったのか、立ち寄ったドラッグストアに、トイレットペーパーが山のように積んであった。
こんなにたくさんトイレットペーパーがあるのを久しぶりに見たなぁなどと思っていたら、後ろからおじさんに声をかけられる。
「すみません…これってトイレットペーパーですよね?」
そうですよと答えたら、おじさんは安堵の表情を浮かべて、それから少し恥ずかしそうに笑った。

そのおじさんはきっとこの数日、とても切実な思いでトイレットペーパーを探し続けていたのだろう。
スーパーやドラッグストアを渡り歩き、その度に落胆していたに違いない。
そうして遂に見つけたトイレットペーパーが今までと打って変わり、あまりにもたくさん積んであるものだから、もしかしたらこれはトイレットペーパーに似た別のものなのではないか、だからこんなにたくさん置いてあるのではないかと不安に襲われたのだろう。
でも忙しそうな店員にそんなことを聞くのも躊躇われるので、たまたま近くにいたわたしに聞いてみた、恐らくそんなところだ。

そういう予想はつくし、おじさんの行動そのものは微笑ましさすら感じられることではあったが、それにしたってどこからどう見てもトイレットペーパーであるそれが何なのかわからなくなってしまう、それほどまでに今世の中はおかしなことになってしまっているのかと思うと、少し背筋が寒くなったような気がした。

それから今度はトイレットペーパーだけでなくオムツなどの紙製品全般に品薄が波及した。
子どもが普段使っているオムツは肌に優しいちょっと良いタイプのもので、近所では最寄りの駅前のドラッグストアにしか売っていなかった。
そして、そこにしかないせいか、そのオムツだけが売り切れている日が続いていたため、一つ先の駅まで歩いて、そのオムツが売っているお店がないか探してみることにした。
一つ先の駅周辺のほうが栄えており、お店も多いので売っているのではないかと期待したものの、結局見つからずがっかりしたが、せっかくここまで来たので、近所にはないスターバックスで新商品でも買って帰ろうと思いついた。

店内に入って驚く。
コーヒーを飲むための店なのに、席につく客の多くがマスクをしていた。
もちろんスタバで勉強や仕事をする人がいることも知っているし、コロナが流行している今、マスクをしているのは普通のことだ。実際自分だってマスクをしている。
だが、ウイルスは気になるのになぜコーヒーを飲み終わってもなお店内に居座り続けるのかわからなかった。
勉強などをする人も、一応はコーヒーを飲みながら、というのが今までの建前だっただろうに、マスクをしていたら飲み終わっていることは一目瞭然だ。
感染対策というのであれば、そもそも不特定多数が集まる店内に長く滞在すること自体が間違っているのではないだろうか。
矛盾するその人たちの表情は、マスクに覆われて窺い知ることはできない。
何だか自分の知っている店ではないような居心地の悪さを感じ、わたしは新商品をテイクアウトしてそそくさと店を後にした。

その後、テレビをあまり観ない自分でも、どんどん感染者数が増えていっているというニュースが目に入ってくる日々が続いた。
夫が週2回の在宅勤務になって以降は、買い物も全て夫に任せ、天気の良い日に子どもとベランダで外気浴をするだけになったわたしは、他人と会うことはなくなり、世界は眺めるだけのものになった。
週末、実家にラインのビデオ通話を繋ぐと、早く孫に会いたいと言って両親がスマホの中で手を振る。
元々インドア派のわたしにとって今の生活は苦になっていないが、そうした暮らしを続けていると、時々ガラスケースに閉じ込められているような錯覚に陥る。

そして、佐倉ふるさと広場のニュースを見て、あぁ遂に外の世界は壊れてしまったのだと泣いた。

行ったことはないが、佐倉ふるさと広場では毎年この時期たくさんのチューリップが花を咲かせ、チューリップフェスタなるものを開催していたらしい。
コロナウイルス感染拡大防止のため、そのイベントは中止となり、駐車場も封鎖していたが、大勢の人がチューリップを見に来てしまったため、これ以上人が集まるのは危険と判断され、約80万本ものチューリップが刈り取られてしまったという。

赤・ピンク・白・黄色と鮮やかに彩られたチューリップの花たち。
本来はすっと背筋を伸ばして美しく咲いているはずだったそれが、ぐしゃぐしゃになって地を這っている姿は、写真で見ただけでも衝撃的だった。虐殺され、打ち捨てられた死体のようだと思った。
早く花を刈り取ることで球根に栄養が残り、来年より良く咲いてくれるようになるという話を知るまで、チューリップの亡骸が常に頭の中にちらついては涙がこぼれ落ちそうだった。

外に遊びに行く人を責めたいわけではない。
だが、率直に言って、そういう人たちが得体の知れない別の生き物のようで、怖かった。

夫も外出は必要最低限にしてくれているが、生きていくためには一歩も外に出ないというわけにはいかない。
夫の職場ではないものの、そのすぐ近くで感染者が出たらしいという話もあり、そのウイルスは、ひたひたとわたしたちの背後に着実に迫ってきているように感じる。
もし夫が感染してしまったら、大事な我が子にもしものことがあったら…。
そんな考えが止まらず、どこにも行けないのに逃げ出したい衝動に駆られる。恐怖で眠れなくなる。

そうやって目に見えない何かに負けてしまいそうなとき、わたしはポルノグラフィティを聴く。
そして、この世界には昭仁さんと晴一さんがいてくれるから大丈夫なんだと安心して眠りにつく。

ファンの方には今更言うまでもないことだが、昭仁さんは今、配信番組を始めている。
個人的には、昭仁さんがポルノの曲を弾き語りした番外編が好きで何度も聴いている。
ちゃんとした撮影をしようとすると準備に時間がかかってしまうため、とにかくまずは歌を届けたいとご自身のスマホを使って企画してくださったその気持ちが嬉しかったし、選曲も素晴らしかった。
どれも良かったのだが、個人的に特に感動したのがReport21だ。
「衝撃のemergencyを迎え撃つのは僕らしかいなさそう」
この歌詞が今ほど響いたことはない。昭仁さんが歌でわたしたちにその想いを伝えようとしてくださっているのを感じた。
また、2012Sparkとワンモアタイムは、3.11のときにもわたしにパワーをくれた曲だ。
昭仁さんの歌や言葉はいつも真っ直ぐで、何度だってわたしを心の沈んだところから引っ張り上げてくれる。

そして、晴一さんは、noteやラジオで言葉を届けてくださっている。
SNSなどに反射的で攻撃的な言葉が溢れている今、それでも晴一さんは変わらずにご自身で考え、ご自分の言葉で、物事を表現していらっしゃると思う。そしてその言葉の中にはいつも温かい血が通っている。
うまく言えないが、晴一さんが晴一さんでいてくださることが、わたしにとって世界が壊れていない証のようで、その声を聴くといつもほっとする。

昭仁さんの歌は、雲の合間から差し込む光のようで、晴一さんの言葉は、真っ暗な夜に差し出される灯りのようだ。
それぞれが活動されている今だからこそ、2人いるからポルノグラフィティなんだと、わたしはそんな彼らに救われながら今まで歩いてこられたのだと改めて実感する。
貴方たちを好きで良かった。同じ時代に生まれてくることができて、本当に良かったと、心から思う。

大丈夫。わたしは、乗り越えられる。
あんな残酷な運命を辿ったチューリップにだって、その球根に希望が残っているのだ。
あの頃、大変だったけど、家族一緒に過ごせて良かったよねと、笑える日がきっと来る。
ポルノのライブで、彼らにありがとうと伝えられる日が、きっと来る。

だから、わたしは、今日もガラス越しの世界に祈る。