とびおりる

 男は最近、毎晩奇怪な夢を見ることに悩まされるようになってしまった。日中、オフィスの机に向かって午後の会議で配る資料をタイプしているとき、部下の持ってきてくれたコーヒーを飲んでいるとき、さらにはふとトイレに行って一人になった瞬間にも、その夢のことを思い出しては暗い気分になってしまうという。そのせいだろうか、最近男は仕事をしているときもポケーとしていて、普通にしていれば防げるような細かいミスが目立つようになってきた。

じゃあその夢というのはどんな夢なのかというと、「とびおりる夢」だそうだ。

 とびおりる夢ってなんだい、と私も最初は思ったのだが、どうやらビルの屋上のような高いところから飛び降りる夢を、毎晩のようにみるらしい。なるほどそんな夢を毎日見たら、実はもうすぐ私は死んでしまう運命で、その暗示かなにかではないかと思って暗い気分になるのもうなずける。しかし男がその夢のことを気持ち悪く思っている理由はそういうことではないらしかった。どうやらその夢の中で飛び降りて着地する瞬間に、どんなにぐっすり寝ていても体が「ビクッ!!!」となって起きてしまうそうだ。しかし男はどうすればいいのかもわからず、ただ毎晩とびおりる夢をみることにおびえながら部屋の電気を消すことしかできなかった。














ビクッ!!!









また今日も、「あの」夢だ。ぐっすり寝ていたのに起きてしまった。 ...いつになったら安心して寝られる日が来るのだろうか。

男はカレンダーを見た。もうこの夢に悩まされるようになってから1か月くらい経っているような気がした。仕事にも影響が出てきているし、一刻も早くどうにかしたい。しかし恐らくこれは、自分の力ではどうすることもできない。しかし男には一つだけ、心当たりがあった。

 男は小さいとき、近所の友達と公園に行って鬼ごっこをするのが好きだった。学校の終わった午後や休みの日には、毎日のように公園へ鬼ごっこに出かけた。男は足が遅かったが、公園の遊具やパーテーションをうまく壁にしながら鬼から逃げるのを得意としていた。特によくやっていたのが、ジャングルジムの頂上にのぼって鬼が来るのを待って、鬼がジャングルジムにのぼってきたら反対側からそこからとびおりて走り去る、というものだった。

今になって考えてみると、あの頃鬼ごっこでジャングルジムからとびおりたあの感覚は、飛び降りる夢の中で「ビクッ!!!」となって起きてしまう直前の感覚と、なんだか似ているような気がした。からだが宙に浮いて、じめんが視界いっぱいに近づいてくる。怖さとワクワクが入り混じったような、あの感覚。

つまり男は、子供の頃に鬼ごっこでジャングルジムからとびおりたあの感覚が、何らかの原因で今になって呼び起こされて、それが夢になっているのではないか、と思ったのだ。しかし、鬼ごっこをした当時の思い出を頭の中から消すことなんてできるはずもないし、仮にこの原因が正しかったとしても、男はどうすることもできないのだ。




次の日の仕事の帰り道、男は相変わらずあの夢のことを考えながらとぼとぼ歩いていた。すると家路の途中、左手の側に小さな公園があった。そして幸か不幸か、その公園にはジャングルジムがあった。

男はそのジャングルジムを見て、瞬時に思ったのだ。今、もう一度あのジャングルジムからとびおりたら、もしかしたらあの頃の記憶が上書きされて、もう悪夢を見ることはなくなるのではないか。あの感覚を現実で改めて味わっておけば、あの夢はもう現れなくなるのではないか。

男は公園の前の細い路地に通行人がひとりもいないことを確認すると、ベンチにビジネスバッグとスーツの羽織を投げ捨て、急いでジャングルジムに登った。なんだか懐かしい感じがした。そのまま男は躊躇することなく、勢いよくそこから飛び降りた_______











ドッ







鈍い音が狭い公園中に響いた。もしかしたら公園の周りまで響いていたかもしれない。あの頃のような、安い運動靴にまだ軽いからだがのしかかる「タン」という軽い音ではなく、高い革靴に中年の男の鉛のような体重がかかる音だった。男は腰のあたりに鈍痛を覚えながらも、これであの夢を見なくなれば...と思いながら、その場からゆっくり立ち上がった。ベンチからスーツの羽織とビジネスバッグを手にとり、そそくさと公園を後にした。







次の日の朝、男は目覚めると、なんだか気分がいいことに気づいた。こんな朝もあるものか...とトイレに行こうとした瞬間、男は気づいた。「あの」夢を見ていないのだ。今日は飛び降りる夢を、見なかったのだ。1か月も見続けて、悩まされたあの夢を。今日は見ていないのだ。男は即座に、昨日公園でジャングルジムからとびおりたことが功を奏したのだと理解した。とびおりる記憶を上書きすることに、きっと成功したのだ。やった! やった! もう寝られないことに悩まされることは恐らくないだろう。男は生まれ変わったかのように明るい気持ちで、支度をして仕事場に向かった。




その日の仕事の帰り道、男はいつもと違ってすがすがしい気分で歩いていた。家路の途中、昨日寄って行った小さな公園の前を通りかかった。男はその公園のジャングルジムを見て、ああ、昨日はとびおりてよかった、まさかこんなことで解決するなんて、とうれしく思った。

しかし男は、ここである疑問を抱いた。昨日はあのジャングルジムからとびおりたおかげで、あの夢を見ずに済んだ。しかし今日はどうだろうか? もしかしたら今日もあのジャングルジムからとびおりておいたほうがよいのではないだろうか? 逆に今日ジャングルジムからとびおりずに寝てしまったら、またあの夢を見てしまうのではないだろうか?

男は公園の前の細い路地に通行人がひとりもいないことを確認すると、ベンチにビジネスバッグとスーツの羽織を投げ捨て、ジャングルジムに登った。そのまま男は躊躇することなく、勢いよくそこから飛び降りた_______












男はそれからしばらくして、亡くなってしまった。電車にはねられたのだ。男がいつも仕事場に向かうときに使っていた駅のホームから飛び降りたらしい。後で聞いた話だが、男は金に困り、ギャンブルに手を出し、多額の借金を背負っていたので、警察はそれが原因だろうと推定しているらしい。家宅捜索された男の家からは、そこのすり減った大量の革靴の山が発見された。

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